消えかけていく和室の「床の間」
和室の床の間というと、自分が小さい頃の家(一戸建て)や親戚やおばあちゃん家には必ず設けられていたような感じがします。そこには特徴的な床柱(杉磨き丸太など)や、掛け軸や大きな花瓶や花が飾られていたのですが、やはり子どもは触りたくなるもので、その上で遊ぶようなことがあると、床の間に乗ってはいけないと叱られたものでした。
そんな床の間は何となく凝縮された神聖な不思議な場所というイメージがあったのですが、でも、いつからどんな意味で設けられたのか、と思い調べてみることにしました。
正式な床の間は、床の間・違い棚・付書院(つけしょいん:書院甲板があるところ)の3点セットで構成されています(違棚・付け書院は省略する場合もあります)。
特に「床柱(とこばしら)」は、部屋の中で一番大切な柱とされ、部屋の顔・家の顔とも言われ、最もよい材や木目などにこだわった物が使われるようです。格式の高い床の間では檜・松・けやき等の角柱を用い、一般住宅では桐・杉・黒檀・紫檀など、数寄屋造の様な格式や決まり事に囚われない砕けた感じの床の間では杉磨き丸太・皮付き丸太・竹・栗や自然木等を用いているそうです。
床の間は、和室の壁面に設けられた周囲の畳よりも一段高くなっているスペースのことを指し、起源は室町時代だと言われています。
上の絵:壁に掛けた仏画の前に低い卓(前机)を置いて、その上に香炉・花瓶・燭台からなる三具足(みつぐそく)を並べた礼拝場所が、下の絵:のちに固定化して造り付けになった時に凹所として壁から部屋の外へ張り出す押板(おしいた)あるいは押板床(どこ)と呼ばれる形式ができたとされます。
また、「床(とこ)」には寝る場所という意味がありますが、室町時代の上層階級の住宅では一段高くなった場所を「床」と呼んで、ここからきたという説もあります。
なお、床(ゆか)とは、建築物の構成要素のうち、足で踏まれたり、ジュースで汚されたり、物を落とされたりと、汚れ役を引き受けている部位をいいます(笑。
もとは、身分の高い人のベッドのことで、「ゆか」という言葉も語源は“おそれおおくて近寄りがたい所”という意味ではなかったかと考えられています。そこから、他のところより一段高く設けた場所に「床」の字が当てられ、「床の間」「床几(しょうぎ:折りたたみ式の椅子またはベンチ状の腰掛け台)」などと用いられたそうです。住宅の「床(ゆか)」も、のんきな外国人に土足で踏み込まれないように地盤より高く設けて、ここから神聖な場所であるから履き物を脱ぎ、どたばた走り回るような失礼のないようにと暗黙のプレッシャーをかけていると思われます。
など諸説がありますが、今でも正確なことは分かっていないようです。
建築様式では「寝殿造」から「書院造」に変わっていくなかで、室町時代の「押板床」と呼ばれる壁には掛け軸をかけ、板の上に壺などの美術品をおいて、主人と客が押板床を側面にして相対して座り、飾りを観賞していたようです。そして安土桃山~江戸時代初期の武家社会へと変化する中で、身分の上下をはっきりさせるための「上段の間(框[かまち]と呼ばれる横木の分だけ高くしたところ)」が考案され、この「押板床」と「上段の間」が次第に同化し、「床の間」になったといわれています。
いずれにしても「床の間」は、機能的には禅宗の寺院で礼拝のために仏具などを飾るのに使った宗教の精神世界を表現する展示スペース・ギャラリー「押板」と呼ばれる棚状の装置が原形で、床より一段高くとって畳を敷くスタイルは、禅宗の椅子兼ベッドである「畳床(たたみどこ)」や、武家屋敷で殿様がお出ましになるため他の部屋より一段高くした「上段の間」を元にしているようです。江戸時代に入って内戦がなくなり、殿様が飾りものになったという意味のような「上段の間」から来ているという説は滑稽ですが。
同じ頃、座敷の装飾として成立した違い棚・付書院・帳台構(ちょうだいがまえ:寝殿造の寝所の入り口が装飾化したもの)と組み合わされます。
そして「床の間」は座敷飾りの中心的な要素となり、そのわきに違い棚が配置され、1600年(慶長5年)頃には付書院・帳台構の位置も標準的な形式ができたとされます。
それ以後、数寄屋造(簡素で質素な茶室の意匠を取り入れた造り)の書院が広まるにつれて座敷飾りはいくつかの要素を省略して使うことが多くなりますが、いずれの場合にも「床の間」は基本的な要素として中心的に造られました。そこには、教養や財力を示す場でもあり、序列を示す役割もあったようです。
江戸中期になると武家だけでなく、裕福な商家も「床の間」を設けるようになりました。庄屋などの一部の庶民の住宅において、領主や代官など家主よりも身分の高い客を迎え入れるために床の間などの座敷飾りが造られたようです。
寛文期(1661-73年)に始まった江戸の本屋・地本問屋(絵草紙屋とも)の様子。壁に掛けられている錦絵で、掛軸にしては細いものは「柱絵(はしらえ)」と呼ばれ、長屋住まいの庶民には掛軸を掛ける床の間もなかったので、この柱絵を飾っていたようです。
初春の祝いの席で、客の訪問を描いた絵のようです。床の間には鶴を描いた掛軸が掛けられ、亀の置物が飾られています。
明治時代以降になると、都市部の庶民の客間にも「床の間」を造ることが一般化するようになっていき、やがて地方にも広まり今に伝わっています。
露伴は自分の家を「かたつむりの家(蝸牛庵・かぎゅうあん)」と呼び、幾度となく住まいを変えていますが、隅田川の東にあったこの家もその内の一つで、1897年(明治30年)からの約10年間を過ごしています。10畳座敷の床の間には違い棚や付書院が備えられ、露伴は書斎として使っていたとされます。
ということで「床の間」とは、和室において掛け軸や花などを飾る場所。畳敷きの和室は、絵やポスターを飾ろうとしても壁というものがほとんどなく、写真立てや花瓶を置こうとしても、畳の上に書棚や飾り棚などの家具をおく習慣も以前はなかったので、そのような装飾品を集約的に飾る場所として床の間は機能していたともいえます。もっとコテコテに部屋を飾り立てたければ、襖や壁の全面に絵を描く障壁画や、衝立としても機能する屏風という装飾品もあるのですが、見栄はあるが金はない武家にとって、その一カ所だけ装飾を工夫すればよい床の間は、金も手間もかからないインテリアとして重宝されたのだと思われます。
本格的な「床の間」は、工芸品美術品を飾る「棚」と、明かり取りの障子窓と書見机からなる「書院」という装置を両隣りに拝する3点セットで構成され、それらを合わせて「座敷飾り」と言います。しかし狭い家では「棚」や「書院」などを付設することはできず、布団などをしまう押入が床の間に隣り合っていたりするのが普通であり、“和室の決まりだから付けてみました”程度の床の間が多いのは確かです。
加えて最近は、和室がある家の床の間は仏壇置きに、また、初めから和室が無い間取りのマンションや応接間と同じように無駄なスペースを取れない家の方が多いかも。そして「床の間」という名前すら知らない子どもも増えているようです。
出典:日本床の間文化普及会
出典:大和ハウス/和室の基礎知識
出典:床の間
出典:床の間の側が上座である理由とは?
出典:床の間に関するこだわり
出典:見ることが少なくなった和室の「床の間」意外と知らないその役割と歴史的な背景!
出典:日本語を味わう辞典
-
前の記事
昔の日本人はほぼ食べていなかった「卵」料理 2022.07.08
-
次の記事
単なるモノではない「人形」 2022.08.11