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魅力がある昭和レトロな街「新世界」

魅力がある昭和レトロな街「新世界」

7月3日は大阪の新名所「新世界」や「通天閣」が誕生した日だそうです。
昨年、初めての大阪観光で大阪市浪速区・天王寺公園の西に隣接する繁華街の新世界や中心部に建つ展望塔・通天閣(残念ながら休館していて見られず)、南東部に位置する非常に狭い通りのジャンジャン横丁を訪れました。
そこは、再開発の手があまりかかっていないこともあるのか、ボロっぽい古い建物、狭い路地、怪しい出店、派手な看板やネオンなど、70年代の香りを色濃く残す良くも悪くもドヤ街チックな浅草にはない繁華街で、まるで昭和にタイムスリップしたような気分になったのを思い出します。
個人的に心揺さぶられる場所で非常に気になっていて、調べつくされている感もありますが古写真を交えながら探ってみることにしました。
浅草より早かった展望塔の記事はこちら→「展望台」を見つけると登ってしまう⁈

「大阪市パノラマ地図」新世界付近
「大阪市パノラマ地図」新世界付近(1924年)出典:大阪くらしの今昔館

それらは、1903年(明治36年)大阪・天王寺に開催され事実上小さな万国博覧会と言われた第5回内国勧業博覧会の跡地に建てられました。
東側は1909年(明治42年)に「天王寺公園」となり、西側は大阪財界が出資した会社に貸与され、1912年(明治45年)7月3日に遊園地の「ルナパーク」と「通天閣」が誕生しました。
この周りに、食べ物屋や興行小屋、香具師などが集まり歓楽街が出来上がったのが「新世界」という街の始まりのようです。
万国博の詳しい記事はこちら→約半世紀前と同様に世界イベント「万国博」が再び開催なるか!?

ルナパークという名前は、NYのコニーアイランドにあるルナパークという遊園地がモデルで、1911年(明治44年)に起こった火災によって閉園を余儀なくされた浅草ルナパークを引き継いで日本で2番目にできた遊園地でした。

新世界ルナパーク
新世界ルナパーク。出典:Flickr

ルナパークにはメインとなる展望塔ホワイトタワー(白塔・写真右、2020年閉店した「づぼらや」付近に建っていた)が建ち、観客がパークの入り口へ向かう際に空中の景色を楽しめるよう通天閣との間に日本初の旅客用ロープウェイによって結ばれていました。

新世界ルナパークの正門入口
新世界ルナパークの正門入口。出典:Flickr
奏楽堂(音楽堂)と展望塔(白塔)
奏楽堂(音楽堂)と展望塔(白塔)。出典:Flickr
絶叫マシーン(サークリングウェーブ)
絶叫マシーン(サークリングウェーブ)。出典:Flickr

サークリングウェーブは、円形のフレームに乗るところが付いていて、上下に波打ちながら回転する遊戯機械でした。

ロープウェイ(索道飛行船)のゴンドラ
ロープウェイ(索道飛行船)のゴンドラ。出典:Flickr

他にもメリーゴーランドや演芸場や映画館にローラースケート場やスパワールドやコンサートホールなど様々なアトラクションが設置されました。

初代通天閣
初代通天閣。出典:Flickr

“天に通じる高い建物”という意味で命名された「通天閣」初代の高さは当時75mで東洋一でした。パリの名物である凱旋門の上にエッフェル塔を乗せた姿で、世界初の円形エレベーターが装備され、現在でもお馴染みのネオン広告も誕生の時からすでに行われていたようです。そして、塔の下はアーチ型の門になっており、南側にはルナパークの入口となっていました。

初代通天閣とロープウェイ
初代通天閣とロープウェイ。出典:Flickr

ルナパーク内のホワイトタワーから北側を見晴らした写真で、手前には奏楽堂(音楽堂)が見えます。ホワイトタワーには、“自分の前世は日本人であったに違いない”と語っていたアメリカの芸術家・フローレンス・プレッツが1908年(明治41年)に造った福の神「ビリケン像」が祀ってあり、名物となっていました。
ちなみに、ビリケン像は日本には1909年(明治42年)頃に伝えられ大正初年まで流行、特に商家や花柳界で金運招福の縁起物とされました。

「新世界平面図」1913年
「新世界平面図」1913年『大阪新名所新世界写真帖』より

「新世界平面図」は南が上になっています。
新世界は、パリとニューヨークという欧米を代表する二大都市の風景を模倣しながら造られ、北側のパリ風の放射線状街路を特色とする専門店街、中央はニューヨーク風の興行街、南側にはドイツ風ラジウム温泉の噴泉浴場や料亭・旅館など3つのゾーンに分かれたいたようです。
なお、北側はパリの凱旋門を中心にのびる放射状の道路と同様の構造となっていることから「新世界」という名称になる前は「新巴里」と呼ばれた時もあったとか。そして「新世界」は江戸時代の旧世界にはなかった新しい文化や最新技術を駆使した近代的な世界として付けられた名だそうです。

左上に「裏町」とあるのが1916年(大正5年)に完成した日本最大級の遊郭といわれた飛田新地を結ぶ通りになり、小料理屋・飲食店が並ぶ「ジャンジャン横丁」と発展していったとされます。名称は、かつて飲食店などが三味線をかき鳴らして客寄せしていたことからこの名がついたそうです。

新世界の歓楽街
新世界の歓楽街。出典:Flickr

その後、新世界の辺りはだんだんと怪しげな店が増えていき飛田新地が出来た頃にはルナパークは営業不振に陥り、1923年(大正12年)に閉園してしまいました(この頃の新世界の関係者たちにとって一番の主眼は風俗産業を取り入れることだった、という話があります)。跡地は買収され、昭和初期には劇場・映画館や大衆食堂・カフェが立ち並ぶ歓楽街へと変貌していきました。

二代目通天閣
二代目通天閣と通りのビリケンさん。出典:photo-AC

初代の通天閣は1938年(昭和13年)経営悪化で売りに出されると吉本興業・吉本せいが31万円(現在の価格17億円ほど)で買収、しかし1943年(昭和18年)に火事の被害を受け、太平洋戦争時の金属献納運動で解体されてしまいました。
戦後になると地元民の熱意により二代目が1956年(昭和31年)に再建され、2006年(平成18年)には国の登録有形文化財、2012年(平成24年)年は誕生100周年を記念して全館リニューアル、そして現在も変わらず市民に愛されているようです。また、ルナパーク閉園から行方不明となっていたビリケン像は1979年(昭和54年)に復活し、以来通天閣の守り神として名物となりました。
現在は2012年100周年に合わせて新調された3代目となっていて、今もビリケンさんは触りまくられてすり減った足にもめげず、通天閣の中で笑顔で座っていることでしょう。

今年も又、大阪観光を計画していて、今度こそ通天閣に登り、展望台からの風景に古き良き大阪の時代を重ね合わせて見てみたいな、と感じました。
しかし、インバウンド消費を促す、とか言って混みあう状態になるのでしょうか…、ちょっと気が重いですが。

余談でインバウンド消費とは、訪日海外旅行者による日本での買い物や宿泊や飲食などの消費という意味。インバウンド(inbound)は英語では飛行機や船舶などの帰国便を意味することが多いので、インバウンド消費は、海外旅行から帰ってきた日本人が、“あー、やっぱり日本の食い物はうまいな”などと言いながら「たこ焼き」を食べる消費のことを意味しそうですが、そうではありません(笑。

出典:新世界(大阪市)
出典:ルナパーク (大阪)
出典:ジャンジャン横丁
出典:ビリケン
出典:通天閣
出典:大阪の新名所「通天閣」開場…新世界はロープウェイもエジプト館もある一大歓楽地だった
出典:市街に点在した遊園地、市民の娯楽の場/三井住友トラスト不動産
出典:日本語を味わう辞典

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