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昔の日本人はほぼ食べていなかった「卵」料理

昔の日本人はほぼ食べていなかった「卵」料理

卵料理の定番といえば卵焼き、学生の頃のお弁当に必ずといっていいほど入っていましたが、ある時友人と一切れ交換したところ、これがあまりの甘さに閉口した思い出があります。
家で作るものは、だしが少しきいた甘さ控えめのご飯に合う卵焼きだったので、寿司ねたの玉子焼きを抜きにして、この時、甘いの、甘くないの、家庭ごと(地方など)に違いがあるものだと初めて知った感じでした。
ふと、卵焼きを作っている時にそんな事を思い出して、はて日本では卵や卵料理をいつから食べるようになったのかなど気になり調べてみることにしました。

「卵に里芋」葛飾北斎
「卵に里芋」葛飾北斎 画(18-19世紀)出典:ボストン美術館

日本で鶏の卵がいつごろから食べられたか、ということはよくわかっていないようですが、鶏肉については天武天皇の殺生禁止令(675年)が出され、牛馬犬猿鶏の食用を禁じていますから、その頃には食べていたのではないか、と言われています。
ですが卵は、平安初期の仏教説話集『日本霊異記』に「鳥の卵を食べると悪いこと(祟り)が起きる」などといった記述が残っており、信仰的な見地から食べることを避けてきたようです。

安土桃山時代になると、南蛮菓子の渡来とともに、鶏卵が多く使われるカステラやボーロなどが作られるようになり(1600年前後)、江戸時代に入ると徳川将軍の日常の食事に落玉子のみそ汁などの卵料理がみられるようになります。
江戸初期の1643年(寛永20年)刊『料理物語』には卵の料理法が何種類か出ているようですが、卵料理が広まったのは江戸中期以降とされます。

ですが1697年(元禄10年)刊の『本朝食鑑』に、鶏を飼うのは大きいものは闘鶏用、小さいものは愛玩用で、その他に卵を生む利点もあるとしていますから、江戸時代初期には採卵は主目的ではなかったようです。

「江戸高名会亭尽 王子 扇屋」歌川広重
「江戸高名会亭尽 王子 扇屋」歌川広重 画(1838-40年)出典:ボストン美術館

江戸時代の桜の名所として知られる王子(東京都北区)飛鳥山下には音無川(石神井川)が流れており、対岸の台地には王子権現(王子神社)と王子稲荷があり、桜の季節以外にも参詣客で賑わっていて参道沿いには多くの料理屋や茶店が建ち並んでいたそうです。その中でも「扇屋」と看板料理の玉子焼きは落語の演目「王子の狐」に登場するほど知られていました。

「扇屋」の創業は1648年(慶安元年)、初代が農業のかたわら掛茶屋(小屋がけの茶屋)を出したのが始まりで、料理屋になったのは1799年(寛政11年)とされます。名物は釜焼と呼ばれる20個近くの卵を使い直径25cm弱・厚さ7cm程の円盤形に焼きあげた6~8人前の玉子焼きだったそうです。

なお、江戸時代は卵を玉子と書いていたとされますが、形が丸いところからきたとか、魂(たま)の入ったものと考えたためとも言われています。

料亭時代の「扇屋」1859年
料亭時代の「扇屋」(1859年)ピエール・ロシェ撮影:北区飛鳥山博物館

音無川沿いに建つ「扇屋」は平成に入るまで料亭としての営業を続けていましたが、現在は敷地にビルを建設し、その一画で名物の玉子焼きに特化して昔ながらの味で営業を続けています。

1785年(天明5年)には、103種類の卵料理を記した『万宝料理秘密箱』が出版され、卵の入った海苔巻きや卵焼きも出現しているので、四角い卵焼き用鍋や江戸前の甘い厚焼き卵が出てきたのは、この頃といわれています。
ちなみに、この頃に流行した卵料理に“玉子ふわふわ”があります。だし汁を沸騰させた中に溶き卵を流し入れて弱火で加熱し、ふんわりと凝固させたものと考えられています。

江戸時代後期になると採卵を目的とした養鶏が行なわれるようになり、都市には鶏卵問屋もできました。卵売りの行商もありましたが、値段が高く、当時の人々にはご馳走だったようです。
幕末の『守貞漫稿(1853年)』には、うどんや蕎麦は1椀十六文、湯出玉子(ゆでたまご)は二十文とありますから、卵は現在とくらべて高価だったことがわかります。

余談で、ゆで玉子は特に花街の吉原で人気があり、男性たちは精力をつけるために、ゆで玉子を腹に納めてからのりこんだそうです。吉原では、夜の見世(店)開きと同時に玉子売りと鮨売りが姿を見せるのが定例になっていたとか。
他にも、江戸っ子の好物のひとつに“生卵のぶっかけ飯(卵かけご飯)”もあったようで、手早く食べられて、うまい上に栄養もとれるところから人気を呼んだそうです。おそらく、日本人は生食を好む文化があるためか、生卵をご飯にかけて食べるのも考えてみれば卵の刺し身のようなところがあり、この卵かけご飯は日本独特のようです。
なお、ちょっと半熟な“目玉焼き”は明治時代になってから欧米から入ってきた料理だそうです。

もみ殻に入った卵
もみ殻に入った卵

そして、本当に卵が普及したのは明治以後、末期頃には和食の中の卵料理もほぼその地位を確たるものにしました。
一般家庭に普及し始めたのは昭和30年以降のこと、米国から新品種の養鶏や技術がもたらされると鶏や卵の価格が安くなり、身近な食材となって普及していきました。
なお、焼き鳥が大衆料理になったのもこの頃です。焼き鳥の記事はこちら→もはやスーパーソウルフードになっちゃった「焼き鳥」

加えて、この時代は食に対する意識が大きく変化し、数々の栄養素の中でもタンパク質やカルシウムが重要視され、卵や肉・牛乳・乳製品の摂取が推奨されました。
特に卵がもてはやされ、「巨人・大鵬・玉子焼き(高度成長期の流行語とか)」と子どもに人気があるものを挙げて称されたり、風邪気味になると卵酒、疲れた時には栄養ドリンク代わりに生卵、遠足行楽旅行には欠かせないゆで卵、温泉地名物の温泉たまご等々、他にも滋養食として病人への見舞いとして重宝された時もあり、卵を食べていれば健康になれる、と珍重されました。

現在では価格の安定した優良タンパク質食品として好んで食されていて、日本は一人当たり年間338個の卵を食べる世界第2位の消費国になっています(1位メキシコ372個・3位ロシア306個、国際鶏卵委員会調べ)。

和食の卵焼き
和食の卵焼き

卵焼き(玉子焼き)とは、溶き卵に塩や砂糖などの調味料を加え、厚さ数cm程度に焼き上げた日本独特の料理。関東では甘くて濃い味で、少々焦げ目がつくほどに焼き上げる「厚焼き玉子」を指すのに対して、関西ではだしを効かせて焦がさず焼いて、大根おろしを添えて食する「だし巻き玉子」を指すようです。

卵焼きの事を調べていたら、なぜか小さい頃の、風邪をひきそうな時に​卵酒を飲まされた事を思い出しました。この卵酒、池波正太郎「鬼平犯科帳」小説の主人公・長谷川平蔵が風邪気味だったり疲れた時にこぼすセリフに出てくるくらいだからと調べてみると、冒頭の江戸初期に刊行された『料理物語』に登場していて、歴史は意外と古いものでした。そして冬の季語にもなっているそうです。

ということで卵焼きついでに卵酒とは、日本酒を温めながら少量の砂糖と卵を加えた飲み物で、栄養価が高いアルコール飲料であり、しかも加熱しているところから、風邪に効くと信じられている民間療法の飲み物です。卵酒はアメリカの家庭で風邪引きに処方されるチキンスープと似たような位置づけにありますが、チキンスープのようにうまいとは言えず(風邪をひいたときに飲むチキンスープが実際にうまいかどうかは知らないが、ふだん飲むインスタントのチキンスープはうまい)、正直“風邪に効く”などとだまされて飲まされでもしなければ、一生口にしないような飲み物かも。また、所詮はアルコールであるから、子どもに対しては酒の量を少なくし十分加熱して飲ませなければならず、、卵酒-酒=卵汁の効き目にますます疑念が生じます。それでもまぁ、ある程度の効力があるからこそ卵酒が風邪の処方薬として飲み継がれてきたのであろうから、“少し酔わせておとなしく寝かせる”という効果をたよりに、これからも飲み継がれていくことでしょう。

出典:鶏卵
出典:江戸っ子も愛した味を求めて、卵焼き専門店へ【東京・王子】
出典:たまごの食の歴史
出典:卵酒
出典:卵焼き
出典:日本語を味わう辞典

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