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「ギヤマン」と呼ばれるにふさわしい「和ガラス」

「ギヤマン」と呼ばれるにふさわしい「和ガラス」

ガラスは透明で硬く、清潔な雰囲気のなかにいつまでも美しく輝き続けるという印象に加えて、一瞬にして砕け散ってしまう儚さも備えていいます。自分も江戸切子のグラスや器やら琉球ガラス、昭和レトロな氷コップなど様々なガラス食器が好きで持っています(あの大きな地震で何点か割れてしまいましたが)。
そんなガラスの歴史は古く、紀元前4000年より前の古代メソポタミアで作られたガラスビーズが起源とされています。

日本でガラスの歴史が始まったのは縄文時代、後期の三内丸山・亀ヶ岡遺跡(どちらも青森県)などからガラス玉が発見されています。ただし日本で作られたものだったかは不明だそうで、弥生時代中期になると作られ始めたようです。
古墳時代は主に勾玉、角型きりこ玉、とんぼ玉、腕輪などが作られ、その後の飛鳥時代や奈良時代では、仏教に関わる道具にもガラスが使われるようになりました。

白瑠璃碗(るりのわん)
白瑠璃碗(るりのわん)出典:ColBase/国立文化財機構

国の重要文化財になっているこの作品は、6世紀・古墳時代の安閑(あんかん)天皇のお墓として伝わる古墳(大阪府羽曳野市)から、江戸時代に見つかったとされています。吹きガラスの表面をカットしたカットグラス(切子ガラス)はササン朝ペルシア(3-7世紀/現・イラン北部でよく発見される)で作られ、特産品として、はるばる日本にやってきたようです。他にも、この作品とほぼ同一規格の綺麗な状態のガラス碗が奈良・東大寺の正倉院宝物にも伝わっています。また、正倉院の「造仏所作物帳」にはガラス製造に関する記述があり、734年頃には原料や製造方法が知られていました。

平安時代に作られた有名なガラス工芸には、春日大社の青緑ガラス玉約2万個がすだれのように連なる瑠璃灯篭(1038年)がありますが、しかし鎌倉時代になると日本のガラスの記録はほぼ途絶えてしまったようです。これは平安時代に入り、新たに磁器製品が加わったことや戦や情勢などの影響があったことなどから徐々に衰退していったのではないかと推測されています。
なお、この時代のガラスは“玻璃(はり)・瑠璃(るり)”という名で呼ばれ、宝石並みの価値があったとか。

「硝子(ヒイドロ)」橘 岷江 画
「硝子(ヒイドロ)」橘 岷江 画(1784年)出典:ボストン美術館。ビードロを製作している絵、ガラス職人だと思われます。
「婦女人相十品 ビードロを吹く娘」喜多川歌麿 画
「婦女人相十品 ビードロを吹く娘」喜多川歌麿 画(1790年)出典:メトロポリタン美術館

大判錦絵十枚揃物の美人画で有名な一枚「ビードロを吹く娘」。当時大流行した市松模様の着物に、舶来品で流行していたビードロ(別名ポッピン)というガラス製の玩具を吹いている絵です。

再度ガラスが日本の歴史に登場するのは安土桃山時代の16世紀中頃のこと、スペイン・ポルトガルなどの南蛮船の渡来がきっかけとなりました。宣教師ザビエルは大内義隆に遠眼鏡(とおめがね)や鏡を贈り、同じく宣教師フロイスは金平糖入りのガラス瓶を織田信長に寄進したという記録が残っています。
17世紀に入り、オランダとの交易によってガラス製品が普及し始め、江戸時代の人々はポルトガル語が由来の「ビードロ(vidro)」やオランダ語由来の「ギヤマン」などと呼んで珍重しました。

ちなみに、ギヤマンとはオランダ語でダイヤモンドを意味するジアマント(diamant)がなまった言葉で、江戸時代この語が伝えられたころは実際にダイヤモンドを意味していましたが、当時そんなものを持ち歩いている人もいないので使い道がなかったせいか、ガラスを切るのにダイヤモンドを使ったところから、いつしかガラスのことを「ギヤマン」と言うようになったとか。今どき「このギヤマンの皿は…」などと言っても通じないですが、時代劇で悪徳商人の越〇屋が悪代官にワインを飲ませるようなシーンで出てくる言葉であることから、時代劇ファンや江戸文化歴史検定を受験する方は要チェックの用語かもしれない(笑。
おまけに、ガラスといえば長らくダイヤモンドの模造品に使われ“ガラス玉”とバカにされていましたが、近年、ガラス本来の美しさを追求し丁寧に作られたジュエリー・アクセサリーなども人気があり、これこそまさに「ギヤマン」と呼ばれるにふさわしいガラス、なんて思ってしまいます。

「名所腰掛八景」喜多川歌麿 画
「名所腰掛八景」喜多川歌麿 画(1795-96年)出典:ボストン美術館

「腰掛」は水茶屋(みずぢゃや)に置かれた床机のことで、看板娘を描いた揃物を意味します。芝の茶屋娘がギヤマンと呼ばれたガラスの杯を持って何かを飲んでいますが、当時は高価なものでした。

「魚商人藤六」歌川国貞 画
「魚商人藤六」歌川国貞 画(1859年)出典:演劇博物館デジタル

江戸の人口の急増とともに魚市場は繁盛し、元禄以降には魚市場は朝千両、芝居小屋は昼千両、吉原遊廓は夜千両ともいわれました。儲けた魚商人が洋風グラス片手に遊廓遊びの絵と考えられます。

最初に海外と貿易を開始した長崎で興ったガラス製造は、18世紀頃からガラス器の製作が始まり、大坂、江戸をはじめ各地にその技術が伝わるようになると各種の器、装身具などが作られるようになりました。そして19世紀には薩摩切子(さつまきりこ)、江戸切子と呼ばれる精巧な工芸品が誕生するに至ります。

薩摩切子の栓付瓶・杯
薩摩切子の栓付瓶・杯(江戸時代・19世紀)出典:ColBase/国立文化財機構

薩摩切子は28代薩摩藩主島津斉彬の命により1851年に紅ガラス制作に成功して生まれましたが、1862年の薩英戦争で工場が焼けて途絶えてしまいました。しかし近年ガラス職工・宮垣秀次郎により再興され、県の伝統的工芸品に指定されています。

斑色(ふいろ)ガラス筆筒
斑色(ふいろ)ガラス筆筒(1881年/明治14年頃)出典:ColBase/国立文化財機構

品川ガラス製造所は、ガラスの国産化を目指して1876年(明治9年)に設立された官営の日本初の西洋式ガラス工場。明治11年に品川工作分局と名を変え、明治17年に民間に払い下げられました。これは明治14年の第二回内国勧業博覧会に出品された作品です。

1873年(明治6年)に日本初の西洋式ガラス工場「興業社」ができましたが、1876年(明治9年)に政府に買収され「品川ガラス製作所」へ、その後、払い下げられ民営になりましたが長くは続かず、1892年(明治25年)に解散してしまいました。

様々な紋様の和ガラス
大正から昭和初期に作られた和ガラス
大正から昭和初期に作られた和ガラス

しかし、明治以降に技術が発達し、ビール瓶やしょうゆ差しをはじめ、ガラス製品は人々の暮らしに溶けこんでいきました。その中で日本人の手により、日本の暮らしに合わせた形や意匠の和ガラスが生み出されました。
もともとは西洋のデザインを模して作られていたガラスですが、国内で大量生産が始まると、庶民に親しみのある氷の結晶・波を表した青海波・波千鳥など、涼しげな水のモチーフを多くの模様に取り入れられた和柄が登場。当時、氷が一般的でなかったため、涼しさを呼ぶ食器ということでデザインを考えていったようです。

また、日本の夏といえばカキ氷、カキ氷を入れる氷コップが生まれたのは明治後期のこと。製氷技術が日本に伝えられたばかりで、カキ氷は時代の先端を行く庶民の憧れの食べ物でした。当時のガラス職人たちは持てる技術を駆使して、色とりどりの色彩を施した人々の目を楽しませる氷コップを作ったそうです。
かき氷の詳しい記事はこちら→もはや1年中ある「かき氷」を美味しく!

赤と乳白色が混ざりあった柔らかな赤、白いぼかしが入った凝った模様、涼しげな和柄、日本で作られてきたガラスの器には、たおやかな自然の表情が溶け込んでいるようで、きっと季節を大切にしてガラスを使ってきたのでしょう。
そして、氷への“あこがれ”とガラスへの“あこがれ”という時代が確かにあり、そんな時代の“あこがれ”をまとっているからこそ、昔のガラスはノスタルジックな雰囲気を醸しているのかもしれません。
これからの季節、ささやかに和ガラスで食卓に彩りを添えたいものですね。

出典:日本語を味わう辞典
出典:ガラス
出典:ガラス工芸
出典:ガラスとは。「液体の造形美」進化の歴史と今

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