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青から黄色に変わった「はとバス」は、昭和な観光!?

青から黄色に変わった「はとバス」は、昭和な観光!?

「はとバス」と聞いてまず思い浮かぶのが、ひときわ大きな黄色いバスのボディサイドに描かれている“HATO BUS”の赤い文字、そして東京駅などのターミナル駅を基点に、半日または1日かけて都内の名所などをバスガイドが案内して回る、東京観光の代名詞ともいえる定期観光バスでしょうか。
実は利用したことはないのですが、こういったバスを見かけると、なぜか子どもの頃の車窓風景に重なるバス遠足を思い出します。ということで、昭和の観光とも言えそうな「はとバス」について調べてみました。

「東京遊覧乗合自動車」帝都交通機関最新式乗合自動車
1925年(大正14年)「東京遊覧乗合自動車」帝都交通機関最新式乗合自動車。出典:Flickr
「東京遊覧乗合自動車」東京市内遊覧バスとバスガイド
1937年(昭和12年)「東京遊覧乗合自動車」東京市内遊覧バスとバスガイド。出典:Flickr

東京で初めて、定期路線のバスに観光をセットした乗り合いの定期遊覧乗合バスが開始されたのは1925年(大正14年)でした。これは車体色から「青バス」と呼ばれる愛称で親しまれ、戦中の1940年(昭和15年)まで運行されていたようです。
それまでの営業権は東京都が所有していましたが、戦後、営業権譲渡を申請していた東京地下鉄道出身の山本龍男という人物が都内観光バス事業の再興を目指し、「(株)はとバス」の前身にあたる「新日本観光(株)」を1948年(昭和23年)に設立、最初に運行した観光バスは翌年の元旦に出発した成田山初詣の団体貸し切りバスとされます。

なお、女性のガイドは戦前の青バス時代から活躍していましたが、始まりは1928年(昭和3年)に、別府温泉を回るコースで亀の井バス(大分県別府市)が最初だと言われています。
ですが、開業時の団体貸し切りバスでは、内勤の男性職員が車掌と添乗員を兼務していたとか。都内を走る定期観光バスから「案内ガール」と呼ばれた女性のガイドを採用したそうです。
昭和30年代以降、華々しく活躍できるバスガイドは世間から大きな注目を集め、女性に人気の職業に。その人気はスチュワーデスにも負けないほどだったらしく、1957年(昭和32年)には初代コロムビア・ローズが歌う「東京のバスガール」という歌もヒットしています。

「新日本観光(株)」はとバス観光東京パンフレット
昭和20年代「新日本観光(株)」はとバス観光東京パンフレット。出典:古書 古群洞

当時の国産ボンネットバスには代用燃料(天然ガス仕様に改造、ガスボンベ1本で40kmほどしか走行できなかった)が使われることも多く、よく故障したとか。

最初のバス運行から間もない1949年(昭和24年)3月、都内の定期観光バスを運行開始しました。「富士」と名付けられた第1号車は上野駅正面口から発車し「東京半日Aコース」と名付けられたルートを3時間半かけて周遊、料金は大人250円という、当時の大卒銀行員の初任給が3000円ほどだったから贅沢な観光でした。

「新日本観光(株)」はとバス東京遊覧カタログ
昭和30年代「新日本観光(株)」はとバス東京遊覧カタログ。出典:Flickr

女性ガイドの最初は私服で乗務していましたが、1951年(昭和26年)に初の制服が決定、色は濃紺でやや地味なデザインでした。最も話題になったのは1968年(昭和43年)に登場の、流行を採り入れたミニスカートとクラウン型帽子の森英恵デザインの制服だったとか。また、車体がボンネットバスから普通の箱形に変わったのは1953年(昭和28年)でした。

はとバスのシンボルマーク
左から初代はとマーク(1948年~)、2代目(1950年~)、現在(1989年~)。出典:株式会社はとバス

戦後、遊覧バスの運行を開始してから間もなく、車両にスピード、平和、安全に元の場所に戻ってくるという信頼の証として、バスには鳩を図案化したシンボルマークが描かれるようになりましたが、“鳩らしくない”との意見があり1950年(昭和25年)に新しい「はとマーク」が改訂され、同時に「はとバス」という愛称も正式に決定しました。そして、1963年(昭和38年)には社名が「株式会社はとバス」に変更されました。
現在のシンボルマークは1989年(平成元年)に変更したHato Busの頭文字を組み合わせた「HBマーク」で、4羽の鳩による“バス・旅行・ホテル・料飲”の4部門と、“安全・快適・信頼・繁栄”、“夢・未来・飛躍・旅立”などを表現しているそうです。

その後、「東京半日Aコース」に続いて、1951年(昭和26年)の「夜の定期観光コース」や1952年(昭和27年)に初の外国人向けコースの「昼の外人Sコース」の運行も開始され(当初はアメリカ人と富裕層の利用者が多かったとか)、高度経済成長期に空前の観光ブームとなり、コースともに利用者も増えていきました。
ちなみに、1963年4月のカタログでは、スタンダードコース500円前後から吉原おいらんショーを含む夜の豪華コース3300円まで、30コース以上がラインナップされていました。

そして、利用者が最大になったのは、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催時に運行した「オリンピック記念コース」で、122万人が利用したという大ヒットを記録、これは未だに超えられていないそうです。

以後、季節限定のコース、スポーツ観戦コース、新名所を巡るコース、大型イベントと絡めた特別コースなど増え続け、一人でも皆でも気軽に楽しめるバスツアーとして、現在では宿泊するものも含めると常時1000以上の観光コースが用意されているようです。

以下、昭和な時代に運行していた「はとバス」を紹介します。

1963年「スーパーデラックスバスAタイプ・月光仮面」
1963年「スーパーデラックスバスAタイプ・月光仮面」。出典:GetNavi

1963年(昭和38年)には、後方の席を高くして見晴らしを良くしたシアター形式シートの、月光仮面と言われたAタイプと金魚鉢と呼ばれたBタイプの豪華観光バスが登場。Bタイプは大きなガラス窓を持ち、さらに開放感を高めたバスでした。運行は外人用定期観光コースから開始されたとか。

1965年「走るパーラー」のオープンバス
1965年「走るパーラー」の屋根を取ったオープンバス。出典:はとバス

1965年(昭和40年)、前後シートを向かい合わせにして会話や軽食がでる、24人乗りの初代オープンバス。「納涼船羽田モノレールコース」で運行を始め、以降都内の定期コースに導入されましたが、雨天対策が難しく乗客の評判は今ひとつだったため、運行は短期間で中止されたようです。

車体や装備のデラックス化は進みましたが、昭和50年代後半までの国産バスの技術がそれに追い付かず、トラブルが多かったそうです。そこでこの頃は、信頼性が高く乗客を大量に輸送できるドイツ製の大型バスを導入していました(現在は日本メーカーのもの9割を使用)。

なお、おなじみのレモンイエローの車体は、遠くから見ても曇や日陰でもバスをすぐに見つけられることや目立つなどの理由から採用し、1979年(昭和54年)に車両イメージを統一されたとか。

1971年「スーパーパノラマカー」
1971年「スーパーパノラマカー」。出典:はとバスEXPO

1971年(昭和46年)、初のエアコンバス「スーパーパノラマカー」が運行を開始。これは、窓が大きいため冷房用ダクトを室内に設けられず、屋根上にロケット状のダクトを設置したオリジナル車で、レモンイエローに塗られた最初のバスでもありました。

1982年「二階建てバス」
1982年「二階建てバス」ドイツ製。出典:はとバス

1982年(昭和57年)に初登場となった二階建てバス、エンジンはベンツのを使い、ボディは西ドイツ・ドルクメーラー社製のものを使用。ハイアングルからの眺望が好評を博し、1984年には早くも増備車が登場、東京定期観光の看板として定着しました。

ジェイ・バス製いすゞ「ニューガーラ」
現在の主力車両、ジェイ・バス製のいすゞ「ニューガーラ」スーパーハイデッカー(中二階バス。眺望を良くするため床面を上げ、床下に荷物室やトイレを設置している)

はとバス利用者は約9割以上が日本人観光客で、そのうち4割が首都圏で6割が地方の人、そして40代以上が多いそうです(毎日新聞2018年、調べ)。

はとバスとは、主に東京の観光地を巡る各種コースを提供し、海外の旅行者にもほんの少し好評な定期観光バスで、観光スポットを効率よく回る着地型ツアーでもあり、手頃な価格・近場で楽しめる・短い時間でOKという「安・近・短」を志向する最近の日本人のニーズにぴったりと合っていそうな、気軽に楽しめるバスツアーといえそうです。
そしてその名称は、決して観光地に群がりエサをねだって糞を落とすハトを観光客になぞらえて付けたわけではなかった。。

出典:はとバスの歩み
出典:毎日新聞「はとバス」の70年
出典:乗りものニュース
出典:はとバス
出典:東京遊覧乗合自動車
出典:日本語を味わう辞典

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