使っている人それぞれが育てていく「鉄瓶」
南部鉄器は、17世紀中頃、南部藩主が京都から盛岡に釜師を招き、茶の湯釜をつくらせたのが始まりといわれます。
良質な鉄等(砂鉄)の原材料に恵まれたことや、藩が保護育成に努め各地より多くの鋳物師、釜師を召抱えたことで発展を続け、出来上がった釜のことを南部釜と呼ぶようになり、有名な南部鉄瓶は18世紀になって茶釜を小ぶりにして改良したのが始まりです。
その頃に茶道において煎茶法(茶葉をお湯で煮出して抽出する方法)が広まり始めた事もあり、土瓶が台頭してきて茶釜や湯釜は少しずつ衰退し始めていました。そこで三代目小泉氏が、もともと注ぎ口やツル(持ち手)のない湯釜にそれらを付け、大きさも土瓶ほどの大きさにして手軽に使えるようにと試行錯誤の末、ようやく土瓶の代わりに用いることの出来る湯釜を考案します。これが南部鉄器の鉄瓶、いわゆる”南部鉄瓶”の始まりです。当時は”鉄薬鑵(てつやっかん)”という名前だったようですが、そこから”鉄薬鑵→手取り釜→鉄瓶”を変化していったそうです。
こうして、それまでは茶釜や湯釜などの専門品・工芸品が中心だった南部の鉄器に“日用品”が登場し、一般の人にも手軽に用いられるようになりました。
「やかん」の詳しい話はこちら→お湯を沸かす道具「やかん」は姿を変えていく
鉄瓶の渋い味わいは、ここ数年、海外からも脚光を浴びています。
その中でも、欧米を中心に、鉄瓶から生まれたカラーティーポットが大人気となっています。
日本の鉄瓶に魅了されたフランスのフランク・ドゥサンさんが、北斎の絵の複製プリントを買って、この赤、この青、を出して欲しいと職人に頼んで作ってもらったのがきっかけだったとか。カラー鉄瓶は今ではすっかりフランスに定着しているそうです。
しかし、鉄瓶の祖先は茶釜。「侘び寂び(わびさび)」にはじまる、陰翳の美学を受け継いでいます。おそらく、日本の鉄瓶の墨(漆)の良さは、真新しいものの中に微妙な古さを表現している事ではないでしょうか。
そして、鋳物独特の肌「鋳肌(いはだ)」の重厚な鉄の質感、「霰(あられ)」と呼ばれる規則正しい小さい点の繊細な文様、飽きの来ない形は、枯淡の趣があり、時代をも付けてしまう深さが鉄瓶に感じられます。
なのでカラー鉄瓶は、やはり欧米で製作された“まがい物”という感じがしてしまうのですよね。
鉄瓶の表面は、使い込むほどに、かすかな錆に覆われてきて、使い込めば使い込むほど良くなり独特の風合いが出てきます。内部も水に含まれるカルシウムが付着し白っぽくなりますが、カルシウムは赤錆を防ぐだけでなく、お湯の味を良くする働きをするのだとか。又、お湯に鉄分が溶け出して、毎日の鉄分補給にも役立ちます。
初めは工房の人が作ったものかも知れないけれども、使っている人それぞれが育てていく、鉄瓶はそういう道具なのかもしれません。毎日使い続けることで、自分だけの鉄瓶という名品を作ることができるのでしょう。
最近、人気がある鉄瓶で、直火にかけられ急須にも使える一台二役の鉄瓶兼用急須があります。伝統的な霰文様の南部鉄瓶を小さくしたアイデア品で、少量の湯を沸かすのに丁度よく、付属の茶こしを使えば食卓の急須としても使え、何十年と使える鉄瓶はおすすめです。
ちなみに、霰文様は鉄瓶が肉厚になり、保温効果が増すそうです。冬は熱燗とかよさそうですね。
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