夏に出かける場所といえば「海水浴」だった昭和の頃
海水浴とは、海水に浸かり游泳等をすること、またビールを飲みながら(飲まない人もいるけど)浜辺での日光浴、スイカ割り、ビーチバレー、もしくは海の家での食事とかも含まれそうです。
前回の潮干狩りに続き、珍しい海水浴の錦絵を見つけたので、まだまだ早いですが日本で海水浴が楽しまれるようになったのはいつ頃からかなど調べてみました。
海水による沐浴(もくよく)の歴史は古く、旧約聖書に紀元前からエジプト人が行っていた記録があります。近代の海水浴は、欧米では17世紀のヨーロッパに遡り、18世紀の中頃イギリスの医師R.ラッセルが医療効果を宣伝してブライトンの海岸に施設をつくり患者を集めて実行したのが海水浴(sea bathing)の始まりとされ、後半から一般的になったようです。
明治期の女性たちの夢や憧れを丸窓のようなところに描かれ反映させた「幻燈写心競(げんとうしゃしんくらべ)」というシリーズの海水浴。当時まだ新しかった海水浴を夢想しながらタライの水で体を拭いているようです。
日本でも、古くから潮浴(しおあみ)、潮湯治(しおとうじ)などの名で医療のための海水浴が行われていて、平安時代から江戸時代にかけての和歌や文献に記されています。
世界最古の海水浴場は愛知県常滑市の大野海水浴場ですが、平安時代から鎌倉時代にかけての歌人・鴨長明(かものちょうめい)が尾張国大野の浜で海水を浴び、海水療法としての潮湯治が行われていたことがわかる和歌を詠んでいます。
いずれにせよ、海水に浴する行為や海水を浴びることによりもたらされる治癒効果は平安・鎌倉時代には知られ、潮湯治という名称で受容されていたので、現代で言う「タラソテラピー(海洋療法)」の元祖と位置付ける見方もあります。
なお、「海水浴」という名称は江戸時代後期に来日したシーボルトらによって伝えられ、使用されるようになったのは明治になってからで、初めて使用したのは蘭方医の松本順(良順)といわれています。
海水浴を取り扱った資料は、1874年(明治7年)に陸軍軍医監を務めた緒方惟準(これよし)と村瀬譲の連名で明治初期の新聞『公文通誌』に「海水浴」と題した論文を寄稿、これが日本で記録に残る最古になります。
ちなみに、緒方惟準の父は、手塚治虫の『陽だまりの樹』や村上もとかの『JIN-仁-』に登場している幕末期に活躍した日本近代医学の祖・緒方洪庵です。
そして、西洋医学を学んだ医師らによって1880年(明治13年)、公式記録として日本最初の海水浴が、大阪鎮台の兵士が脚気治療のために兵庫県須磨の明石海岸で行ったとあります。
1881年には医師・後藤新平が潮湯治の地、愛知県大野の千鳥ヶ浜に小屋掛けをして海水浴場に、また1885年(明治18年)軍医総監となった松本良順は神奈川県大磯(おおいそ)町照ヶ崎海岸を理想の海水浴場として開設しました。この照ヶ崎海岸は、日本の海水浴場の明確な発祥の地とされています。なお、建設資金では渋沢栄一や安田善次郎らの協力があったそうです。
一方で富岡(横浜市金沢区)、保田(千葉県安房郡鋸南町)、二見が浦(三重県度会郡)、沙美(岡山県倉敷市)、片瀬・鎌倉など“海水浴発祥の地”を標榜している地域も少なくなく、海水浴発祥の碑というものも複数地域に存在しています。なお、片瀬では、明治初期には早くも外国人の海水浴が行なわれていたことが知られています。
しかし海水浴場が開設されたましたが、人気は今ひとつ盛りあがらなかったそうです。というのも、水による感染が多く夏に活発となるコレラ感染が度々発生し、特に1879(明治12年)と1886年には死者10万人を超える大流行となり、人々が敢えて海水浴という行楽をすることを避けた、と考えられています。
そんな海水浴の人気に火がついたのは1887年(明治20年)、大磯の海水浴場に洋風大型旅館「梼龍館(とうりゅうかん、病院の役割もあった)」が開業すると大々的に宣伝をし、また東海道線の旧横浜駅~国府津駅間に大磯駅が同年に設けられた効果もあり海水浴客の数は爆発的に増加しました。これがきっかけで以降、海水浴場の開設は全国化していきました。
ちなみに当時は、あくまでも海水“浴”であり、泳いだり水遊びをしたりするのではなく、体力や体調に合わせて1日に数回、各10~20分ほど海中で塩水に浸かる健康増進が目的でした。明治時代の海水浴風景を描いた絵を見ると、海中に何本も棒が立てられ、客たちはその棒にしがみついているのが見えます。楽しそうな表情をしている人よりは、どちらかといえば苦行か修行のような感じです。また、神奈川県では1888年に男女区域を設け、男女混泳を禁止したりしました。
海水浴を楽しむ時は男性はふんどし、女性は腰巻きや、水着と言うよりも洋服のようなものやパジャマに似たような服を着ていたようです。
明治中期~後半になると、ワンピースタイプの縞々模様の縞馬(シマウマ)水着が人気を博し、当時の芸妓さんがモデルとなり水着姿の絵ハガキなども販売されたりなど、この水着は大正時代まで続きました。
下記写真は明治大正時代の芸妓さんモデル水着姿です。出典:Flickr
写真は着色され、当時の水着の色や柄なども再現されています。カラフルで様々な縞模様も多く、流行っていたことがわかります。多くの写真で髪がしっかり結われているのは時代でしょうか、それとも芸妓さんならではの美意識なのでしょうか。
縞模様の詳しい記事はこちら→「縞模様」のヨコシマな歴史の不思議!
浮き輪は茶屋(現・海の家)の名前が入った布で覆われたコルク製。
板は、イタゴと呼ばれるボディボードの元祖のような波乗り用板。
明治中期以降になると、医療や保養のためでなく水泳の目的のために利用する人々が多くなり、海水浴と海水浴場は行楽やレジャー的な要素が加わり、大衆的な夏のレクリエーションへと発展していきました。
ですが、国内の海水浴客のピークは1985年(昭和60年)、以降は海水浴場と共に減り続けているそうです。レジャーの多様化が主な原因らしく、その他にも日焼けや砂による汚れや肌・体型を露出することを嫌う心理、河川・海岸工事による砂浜の砂減少などが影響しているようです。
確かに日焼けは大変です、以前初めて沖縄へスキューバダイビングと海水浴に行って帰宅一週間後、腕から手の甲まで水ぶくれが全て繋がって皮膚一枚の下で水が行ったり来たりと腕が妖怪みたいな酷い状態になった事があります。
もう一つこの時の失敗談を付け加えれば、水着を新調してフランス製ビキニを買ったのですが、やはりあちら仕様の所為か脇を縫うことに、にもかかわらず波の力は強くて立ち上がった瞬間に見事にずり落ちましたよ、パンツ…(汗。なんだか自分にとっては水関連は鬼門のようです。
どうでもよい話になってしまいました(失礼)、今は海水浴へ行くことはなくなってしまいましたが夏になったら毎年欠かさずに出かけていたあの頃の海を思い出します。
ゆえに、波打ち際でスイカ割りに興じ、はしゃぐ子どもの歓声、そんな声は遠くに去り、近い将来、波の音しか聞こえなくなってしまうのかもしれない、と感傷的な気分になってしまいました。
出典:我が国における潮湯治から海水浴へ
出典:海水浴/コトバンク
出典:海水浴
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