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今や懐かしつつある「潮干狩り」

今や懐かしつつある「潮干狩り」

潮干狩り、小さい頃に何度が千葉県の方へ行って、採ってきた(ほとんど砂で遊んでいましたが)アサリの味噌汁が美味しかった記憶があります。そういえば、ちょっと関係ないけれど、当時、口に含んで音を鳴らして遊ぶ「海ほおずき」なども海の売店で売っていたな、なんて思い出しました。
ということで、これかからがシーズンの潮干狩りやちょっと残念な貝についてのお話です。

「汐干狩」山本芳翠 画
「汐干狩」明治時代の日本の洋画家・版画家、山本芳翠 画(1929年/昭和4年)

潮干狩は、潮の引いた海浜で、貝などをとる遊びですが、「潮干(しおひ)」の語は奈良時代末期に成立した『万葉集』に既にあり、古くから行われていたようです。
旧暦3月から4月(現在の4月から5月頃)は、一年の中でもっとも潮の干満の差が激しくなる時期で、干潮時には通常は海になっている沖まで干潟(ひがた)が出来て、歩いて行けるほどになり、その現象を「潮干」といい、その潮干を利用して浅利(アサリ)や蛤(ハマグリ)などを獲る(=狩る)ことから「潮干狩」と呼ばれるようになったと言われています。

旧暦の雛祭前後は大潮で、各地の海潮は大きく引いて干潟が広がり、江戸の人々も潮干狩を楽しみました。
室町時代ごろに形ができたといわれる雛祭、水辺において身の穢(けがれ)を清める禊(みそぎ)の意味をもつ行事の「磯遊び」の一環として潮干狩も行われたと考えられています。現在でも雛祭の日には、海辺で貝を拾ったりして遊ぶ磯遊びの風習が残っている地方もあります。
雛祭の詳しい記事はこちら→「雛人形」は、なぜ男女のペアなのでしょう?
ちなみに、蛤の貝殻を雛の食器にするのは、古い時代の上巳の節句にて磯遊びで貝を拾って神に供え、人々も食べたことの名残りと考えられ、現在でも雛祭の料理には、蛤やサザエが用いられています。

庶民たちの娯楽になったのは江戸時代になってからで、お花見と共に人気を集め都市部を中心に行楽として定着していきました。なお、江戸時代は潮干狩を「汐干狩・汐干」と書いていたようです。そして、明治から大正時代には全国的に行われるようになりました。

この様子は、江戸時代の浮世絵にたくさん描かれていているので、その賑やかで楽しげな潮干狩の風景を紹介します。

「汐干景(一部)」歌川国貞 画
「汐干景(一部)」歌川国貞 画(1823-24年)出典:ボストン美術館

2人の女性が持つ棒に吊された貝を入れた籠と鮃(ひらめ)か鰈(かれい)の魚もみえます。江戸時代中期頃までは鮃と鰈の区別が明確でなかったらしく、畿内西国では共に鰈、江戸では大きなものは鮃、小さなものは鰈と呼んでいたそうです。

「江都名所 洲崎汐干狩」歌川広重 画
「江都名所 洲崎汐干狩」歌川広重 画(1832-34年)出典:ボストン美術館

深川の洲崎での潮干狩り風景。『鬼平犯科帳』に浅利の“深川めし”を食べるシーンがありますが、ここの名産が蛤、牡蠣(かき)、バカ貝(あおやぎ)なので、江戸時代ではバカ貝で作られていたともいわれています。
なお、絵では女性も貝掘りに精を出していますが、水に入るので潮干狩り専用の袖の短い小袖の「汐干小袖」があったようです。

「汐干狩図(左部分)」歌川貞秀 画
「汐干狩図(左部分)」歌川貞秀 画(1847-52年)出典:artelino-Japanese Prints

潮干狩りを楽しむたくさんの人々が賑やかに描かれた三枚続きの作品の左部分です。人が多く集まる名所では蕎麦屋の屋台や弁当屋、ざる売り、寿司売りまで出ていたようです。芝の字が見えるので場所は芝浦でしょうか。

「汐干狩図(中央部分)」歌川貞秀 画
「汐干狩図(中央部分)」歌川貞秀 画(1847-52年)出典:Asian Collection

こちらは中央部分、鮃らしい魚を捕まえようとしている女性と子ども、奥には船の上で潮干狩りよりも杯を傾けることが好きな連中が江戸前の海鮮で宴を楽しんでいるようです。子魚や鮃・鰈などよく捕れたそうです。

晩春から初夏は潮の干満差が大きく引き潮が日中にあたるので、江戸では例年旧暦の雛祭りの日から潮干狩が始まる習わし、なので膳には蛤や浅利がつきものでした。秋も同じように干満差がありますが、潮引きが深夜になります。だからなのか江戸時代は仲秋の月見に蛤の吸物の風習があったようです。

「明石浦汐干狩図(一部)」歌川豊国 画
「明石浦汐干狩図(一部)」歌川豊国 画(1855年)出典:国立国会図書館

明石浦とは兵庫県明石市の日本八景名所の一つ。大きな蛸を持って追いかけまわして遊んでいるのでしょうか。明石ダコは有名ですが、海が豊饒だった江戸時代には潮干狩でも真蛸がとれたようです。日本では古くから蛸は食用にされていて、この時代には茹でた足を薄く小口切りにたものを使った桜飯、桜煎(さくらいり)と美しい名がついた料理がありました。煮上がりの蛸の形と色が桜の花びらに似ているところから付いた名だそうです。

「江戸自慢三十六興 洲さき汐干かり」歌川国貞 画
「江戸自慢三十六興 洲さき汐干かり」歌川国貞 画(1864年)出典:東京都立図書館

江戸の潮干狩の名所には、深川の洲崎のほか、江戸湾に面した地域の佃島沖、芝浦、高輪、品川沖、中川沖などがあり、貝は浅利・蛤・蜆(しじみ)・牡蠣などが採れました。今では気軽に買えるようなお値段ではない蛤ですが、江戸時代には沢山採れたため安価だったようです。上方(かみがた)では住吉や堺が有名でしたが、採れる貝の種類に違いがあったようで、最も多いの蛤、次が蜆類で、摂津国・和泉国・播磨国では浅利はあまり採れなかったとか。

「足利絹手染乃紫 十二月之内 弥生」歌川豊国三代 画
「足利絹手染乃紫 十二月之内 弥生」歌川豊国三代 画(1858年)出典:ボストン美術館

早朝に船で沖合に出て正午頃に潮が引いてから船から降りるか、岸辺で潮の引くのを待って歩いて繰り出すかして、貝を拾ったり引き残った潮だまりで魚を捕ったりして楽しんでいたようです。この絵は大勢の汐干狩の人々で賑わう品川沖。しかし品川沖は、ペリー艦隊が浦賀に来航した時に、幕府が江戸の防衛のため5基の砲台を設けようと品川沖を埋め立て(品川台場と呼ばれた)たために、汐干狩の名所品川の海は失われました。

潮干狩り

その後、息子が小さい頃に友人に誘われて、やはり千葉の東京に近い名の知れた所へ行きましたが、あまりにもドブ臭くゴムみたいに不味いアサリだったため、ほとんど廃棄した事があります。それ以降、もう潮干狩りには行くことはありませんでした。

というのも、1980年代半ば以降、埋め立て、乱獲、海洋汚染などで、アサリの国内生産量が急減したため1990年代には輸入が増加、潮干狩場に輸入アサリが撒かれるようになった、という事情があります。
貝類は特に輸入多く、2017年の農林水産物輸出入概況によると、中国産比率はハマグリが87.9%でアサリは65.5%(近年は韓国産が増加傾向)となっています。“活きた貝は外国産でも、いったん日本の海に漬ければ日本産になる”(なので偽装表示には当たらない)という手段で、特に観光地化された潮干狩りスポットは中国産の活アサリを大量に買い付けて撒いているそうです(今やそれが当たり前のことですが)。しかも、農薬が残っていたり、あるいは発がん性物質が検出されたりなど、安全性に問題があるケースが度々報告されています(最近のニュースで二枚貝に含まれるマイクロプラスチックの量も中国が一番多いと報道されていました)。
日本のハマグリなどはもっと深刻で、2012年に絶滅危惧種に指定されており、そのほとんどが中国産です。
ちなみに、タコ類には真蛸・水蛸・飯蛸などがありますが、現在消費量の80%は真蛸で、市場で流通している真蛸の70%以上がアフリカ北西岸沖で捕れたアフリカ産真蛸だとか。

だから不味かったのか、と納得しますが、入場料を取られるなどしたあげく、中腰になって砂を掘り続け腰が痛くなりながら採ったアサリが国産ではない…残念で酷い潮干狩りです。
ですが近年明るい話題もあり、地方でアサリの復活を目指す取り組みや復活の兆しが表れてきているそうです。なので行くのでしたら、今しばらくは潮干狩りではなく磯遊び程度がよさそうですね。

出典:潮干狩
出典:磯遊び
出典:江戸食文化紀行
出典:潮干狩り

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