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日本を象徴する「菊」の奥深い世界

日本を象徴する「菊」の奥深い世界

日本を代表する花は、というと“さくら”と答えるでしょう、ですが、日本を象徴する花といえば、“菊”と答える人が多いと思います。
それは、デザインとしても日常的に見かける、とても身近な花で、皇室では家紋として、菊を図案化した32弁の八重菊紋である「十六葉八重表菊(じゅうろくようやえおもてぎく)」を使用し、国花(こっか)や国章は法律で定められていないものの、パスポートの紋章や硬貨の図柄、在外公館の玄関などに日本のシンボルとして菊が用いられているから、かもしれません。
ちなみに、国民に広く親しまれている“桜”と、皇室の家紋のモチーフである“菊”が事実上の国花として扱われています。

ということで、前回の「菊見」に続き、身近な花なのだけど愛好家以外はあまり関心を抱いていない(自分もですが)“菊”についてのお話です。

図案集「新美術海」神坂雪佳、古谷紅麟 画
図案集「新美術海」神坂雪佳、古谷紅麟 画(1901年)明治時代に当時のデザインの流行が反映された図案集から菊花紋様を抜粋。出典:スミソニアン博物館

「菊」の歴史と菊花紋

日本には20種くらいの野菊が自生していましたが家菊(観賞用の菊)・栽培菊はなく、薬用や観賞用の菊は遣隋使・遣唐使(奈良時代から平安時代初め)によってもたらされたといわれています。一方、古墳時代の第16代仁徳天皇の頃に伝わったという説もあります。

初めて菊が書物に登場したのは平安時代の「類聚国史(るいじゅこくし/892年)」、「古今和歌集」あたりから菊に関する歌が数多く収められているから、薬用だけでなく観賞用としても宮中で人気だったようです。
なお、平安時代の菊の別名は「千代見草」、千年もの長寿を願ってつけられたとか。「重陽の節句」からきているのかもしれません。

春の桜に対して日本の秋を象徴する花として決定的になったのは、鎌倉時代の初め後鳥羽上皇(1180-1239年)が菊の花の意匠を好み「菊紋」を皇室の家紋とした頃からといわれています。
皇室の家紋に菊が使われるようになったのは、この後鳥羽上皇の菊好きに由来し、その後、後深草(ごふかくさ)天皇・亀山天皇・後宇多(ごうだ)天皇が自らの印として継承していきます。そして慣例のうちに菊花紋の十六葉八重表菊が定着し、1869年9月30日(明治2年8月25日)に公式に皇室の紋とされました。1871年(明治4年)には皇族以外での菊花紋の使用がはっきり禁止され、天皇は十六葉八重表菊(“菊の御紋”とも呼ばれます)、親王などの皇族は十四葉一重裏菊と定められました。

菊の家紋、図案
菊の家紋、図案。出典:Wikipedia

家紋や上記の他に、日本の勲章、国会議員の議員記章にも菊がモチーフとされ、国旗に準じた扱いとなる為、類似した商標等は登録できないとされています。
また、菊全般の花言葉は「高貴」「高潔」「高尚」ですが、これも皇室の紋に定められていることに由来します。

蛇足ですが、天皇家とは言いません。戸籍や苗字がなく、一般家庭ではないのでこういう○○家という言い方は間違いになるようです。

菊の文様自体は、紀元前3000年のバビロニアの遺物にあり、古代インドの仏教遺物にもよく用いられていました。
日本でも菊花紋は古くからあり、公家・武家の家紋、店舗の商標などとして図案化され種類は100種以上にもおよびます。
家紋に関する記事はこちら→日本人なら誰もが所有する「家紋」という名のロゴマーク

靖国神社の菊花紋章が付いた神門
靖国神社の菊花紋章が付いた神門(三間三戸の切妻造銅板葺で高さ6mの檜造り)

江戸時代に菊ブーム

日本で菊が広くつくられ始めたのは江戸時代に入ってからで、菊の品種改良が急速に進み1664年(寛文4年)には80品種、1695年(元禄8年)には250品種が記載されており、変化に富む多種多様な菊が生み出されました。そして菊を使った花壇に菊を寄せて植えた「菊花壇」や集めた菊で形作る「菊細工」と呼ばれる芸術品も生み出されていきました。
江戸、美濃、伊勢、京都、肥後(熊本)などではそれぞれ独自の品種も発展を遂げ、それらの品種をまとめて「古典菊」と呼ばれ、今でもその個性的な色や形を楽しむことができます。
この日本で独自に発展した品種は和菊と呼ばれ洋菊と区別されていて、種類は日本だけでも350種以上、世界では2万種あるとも言われています。

和菊は、幕末には本家の中国に逆輸入されたり、1860年(安政7年)に日本を訪れたイギリス人のロバート・フォーチュンが翌1861年に様々な品種を本国に送ったことで、菊の流行に繋がったりと、日本の菊が園芸育種に大きな影響を与えたといわれています。
菊細工や「重陽の節句」のお話はこちら→今はあまり行われない「菊見」という行事はド派手だった!

お刺身としての「菊」がつまへ

元々薬用として食されていた菊が、苦味を取り除き花弁を大きくするなどの改良をした食用菊が江戸時代に誕生します。
現在でも食用菊はありますが、江戸時代には菊の花は青物(野菜)の一種として料理書にも登場しています。「料理物語(1643年)」には“菊のはな さしみによし”とあります。
当時は魚介類に限らず、茸・茄子・葱・こんにゃくや、牡丹・くちなしの花なども、生または茹でて調味料をつけて食べるものを“さしみ”と呼んでいて、菊の花はさっと茹でて、煎酒(いりざけ/酒に鰹節と梅干を加えて煮立てこしたもの。醤油が普及する以前の調味料)とわさびを添えて食していたようです。

刺し身と菊のつま

魚介類の刺し身や寿司などに“つま”として添えられるようになったのも江戸時代、菊の花は彩りの美しさはもちろん、解毒効果を利用した殺菌目的や香りを楽しむ薬味として添えられたと考えられています。
食べ方は、花びらをちぎって刺し身に散らしたり、醤油に入れて味や彩りを楽しんだりするのが一般的だとか。

栄養面でビタミンやミネラルそして抗酸化作能力の高い栄養素を多く含み、発ガン効果の抑制・コレステロールの低下・中性脂肪を低下させる効果の研究結果が発表されています。
現在では、97%も捨てられてしまうようですが、健康に役立つ食べ物として食べた方がよさそうです。

仏花になった「菊」

菊、というとお葬式やお墓参りの花、と思う方も多いのではないでしょうか。
基本的にはお墓にお供えする花は生け花を用い、供えるときは菊の花が用いられることが多いですが、その理由として、菊は日本古来からあり日本の気候に合っているため長持ちすることと、種類も豊富なこと、その清々しい香りと花のもつ気高さから邪気を払うから、といわれています。
古く平安時代の宮中で行われていた、菊にあやかり邪気を払い健康を保ち季節の変わり目を乗り切るという行事「重陽の節句」からきているようです。

ちなみに、故人がなくなってから日が浅いうちは淡い色や白い菊花で奇数の本数が良いそうです。仏教では、死後7日目から7日ごとに閻魔大王に裁きを受け、四十九日目に来世の行き先が決まり、その際、極楽浄土に行けるようにと、できるだけ目立たない控えめな花をお供えするというわけ、だとか。なお、白い菊の花言葉は「誠実」「真実」です。

「菊花に虻(あぶ)」葛飾北斎 画
「菊花に虻(あぶ)」葛飾北斎 画(1833-34年)4~5種類の菊を花の表裏まで克明に色彩も豊かに描かれ、左上に一匹の虻を描くことで絵に動きを加え見る者の心をなごます工夫を凝らした「静」と「動」を美しく描き出した作品。出典:東京国立博物館

最後に

菊は日本人にとって古くから特別な存在で、品位や品格の象徴であり、健康や長寿そして慈愛の象徴であり、そして吉祥文様などの大変縁起の良いものとして愛されてきたようです。
それゆえ、菊は思いやりや慎みの心の表れとして、仏花や献花になどに使われるのでしょう。
主に秋から冬にかけて花が咲きますが、種類や品種が多く1年中何かしらかの菊の花を観賞でき、やはり桜の儚さに比べて力強さを感じます。1年の最後に咲くことから名付けられたとされる“キク(窮まる(きわまる)が語源、諸説あり)”、寒さにも負けずに美しく咲き続けていている生命力あふれる菊に、元気が貰えそうな感じがします。

出典:キク
出典:菊花紋章
出典:キク/コトバンク
出典:終活ねっと

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