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「九里よりうまい十三里」、「馬いほっこり」という美味しいもの

「九里よりうまい十三里」、「馬いほっこり」という美味しいもの

サツマイモと言えば、やはりこれからの季節に美味しい“焼き芋”です。 
小さい頃はおばあちゃんちで、枯れ葉を集めてたき火をし、その中にサツマイモを入れて焼き芋を作ったりして、また、神宮外苑絵画館前のイチョウ並木で、何だかやたら高い焼き芋を軽トラの焼き芋屋おじちゃんから買って食べた、というノスタルジーをどこか感じさせる思い出があります。

ということで、秋の味覚でもあり寒い日に食べたくなる、あったかくて甘い焼き芋のお話です。

焼き芋
種子島産の安納芋の焼き芋。出典:Wikipedia

サツマイモは、紀元前3000年以上前からすでに栽培(メキシコという説が有力)されていた歴史の古い野菜。紀元前2000年ころに南アメリカに広がり、その後コロンブスによってヨーロッパへ、そして世界へ伝わりました。

日本に伝来したのは、中国および南方諸島から1597年(慶長2年)に宮古島へ入ったのが最初とされます。その後、1605年に琉球(沖縄県)にもたらされ17世紀初めには薩摩や長崎に伝わり、徐々に南九州一帯で栽培されるようになりました。
江戸時代、享保(きょうほう)の大飢饉(1732年/享保17年、西日本を中心に発生した)の時にサツマイモをつくっていた薩摩藩で餓死する人が少なかったという話があり、このことから、その強い生命力と栄養価が注目され、栽培が広がったといわれています。
サツマイモは、水をあまり必要としないために干ばつに強く、やせた土地でも収穫(収穫期は長く大量に獲れる)できることが注目され、当時たびたび起こった凶作に対する救荒作物として重要視されるようなり、18世紀になると青木昆陽(あおきこんよう/甘藷先生と言われた学者)が江戸や各地で積極的な導入が計られ、また飢饉のたびに栽培が広がり江戸時代末期までには東北地方にまで栽培が普及しました。

「半四郎 やきいものお七 岩井半四郎」歌川国貞
「半四郎 やきいものお七 岩井半四郎」歌川国貞 画(1819年)店先には焼き芋、凧、草鞋(わらじ)、ろうそく、タバコなどが見られ、芋を焼くかまども描かれています。出典:演劇博物館デジタル

サツマイモの名は、薩摩(さつま/鹿児島)地方でよく栽培されたことに由来します。別名として甘藷(かんしょ)、琉球藷(りゅうきゅういも)、蕃藷(ばんしょ)、唐芋(からいも・とういも)、などともと呼ばれていました。
ちなみに、関西では“琉球藷(りゅうきゅういも)”、関東では“薩摩芋(さつまいも)”と呼びましたが、何故か江戸の女性ではこれを“阿薩(おさつ)”と言っていました。現在でも“おさつ”は女性の間ではよく使われていますよね。

焼き芋はというと、1719年(1732年/享保4年)旧暦9月12日に“京都郊外で酒や餅とともに焼き芋が売られていた”、と朝鮮通信使が「海游録」に記しており、この頃にはあったようです。
関東地方に普及したのは、青木昆陽が1735年(享保20年)に「蕃藷考(ばんしょこう/サツマイモ奨励の冊子)」を出版した以降のことで、関東地方でも大々的に栽培されるようになってから。
1789年(寛政元年)には、焼き芋の作り方も載っている122種のサツマイモの料理本「甘藷百珍(いもひゃくちん)」が出版されたりと様々なサツマイモ料理が生まれました。

「名所江戸百景、びくにはし雪中」歌川広重 画
「名所江戸百景、びくにはし雪中」歌川広重 画(1858年)「山くじら(イノシシ肉料理店)」の反対側に「○やき」と「十三里」と書かれた看板の焼き芋を売っている木戸番小屋が見えます。出典:国立国会図書館

江戸の町に焼き芋屋が現れたのは1793年(寛政5年)の冬、本郷四丁目の木戸番(城下町で町々の境に設けられた木戸の番人)が焙烙(ほうろく)で蒸し焼きにしたいもを「八里半」と書いた行灯(あんどん)を看板にして売ったという。八里半とは、ホクホクした焼き芋は栗の味には似ているが、栗には一歩及ばずということで、九里(栗)のちょっと手前の「八里半」とした洒落だそう。
大坂では、焼き芋のことを「ほっこり」といい、馬の絵の胴のあたりに「イ」の朱字を入れ、これも「馬(旨・うま)いほっこり」の洒落だとか。

砂糖が高価だった時代、甘みが強くホクホク温かくて美味しいと焼き芋が大評判となり、また、「四文も買えば幼児を泣きやませ、十文も出せば食べ盛りの書生でも朝食になる」と言われるほど安価なことが冬のおやつとして急速に人気を集めたようです。
なお、リーズナブルさで市民権を得た蕎麦は1杯十六文(約320円くらい)、焼き芋はさらに安く1本四文(約80円くらい)だったとか。

「豊國十二ケ月、十二月の内 小春初雪(一部)」歌川豊国 画
「豊國十二ケ月、十二月の内 小春初雪(一部)」歌川豊国 画(1855年)平鍋にサツマイモを並べ、重い木の蓋をして下からの火で焼いているのがわかります。蒸し焼きにするのが江戸の焼き芋でした。出典:国立国会図書館

焼き芋の人気とともに需要が増加すると、焙烙に代わり、鋳物製で大型の浅い平鍋で焼かれるようになり、丸ごと1本の芋を焼いた丸焼きは「〇焼き」と看板に書かれ、やがて「九里よりうまい十三里」という洒落が流行して「十三里」の名を掲げる店も出てきました。「九里より」の“より”は四里、九里と四里を足して十三里。また、江戸から十三里ほど離れた、品質の高さで人気があった川越(埼玉県)のことも意味していました。この頃は、低コストな舟運で輸送できる武蔵野台地の川越藩領と下総国の馬加(まくわり)村(現・幕張)がサツマイモの2大供給地となっていました。

木戸番の焼き芋は、1832年(天保3年)刊の「江戸繁昌記」に“木戸番屋では早朝から深夜まで焼き芋が売られ、裕福な人も貧しい人も好んで食べるため、一冬で番屋一軒の売上は20~100両にも達する”と書かれていて、よく売れたようです。

明治に入ると東京には大規模な焼き芋専門店が現れ、1900年(明治33年)には東京府に1,406軒の焼き芋屋が存在したそうです。

リヤカーに載せた石焼き芋屋
リヤカーに載せた石焼き芋屋。出典:Wikipedia

小石を熱して、その中にサツマイモを加えて焼き上げる方法の「石焼き芋」が各所にみえ始めたのは昭和の初め、“い~しや~きいもぉ~”の呼び声で町を回るリヤカータイプの石焼き芋屋が戦後の1950年(昭和25年)以降に向島で登場しました。やがて、軽トラックとスピーカーを用いての石焼き芋の呼び売りが始まり、最盛期は高度成長期の1960年代半ば、その後、1970年(昭和45年)の大阪万博を機に海外からのファストフード店の増加とコンビニの発展などの影響を受け、石焼き芋屋は減少していきました。

出典:焼き芋
出典:江戸・東京の焼き芋屋の移り変わり
出典:サツマイモ

焼き芋

現在では、風情も何もなくなってしまったスーパーマーケットの店頭とかで焼き芋オーブンによる販売が主で、また最近では焼きいも専門の高い焼き芋を売るお店も見かけるようになってきたけれど、晩秋から冬にかけてどこか哀愁を漂わせる“い~しや~きいもぉ~”の声や笛の音とともにトラックや屋台で巡回販売されている姿は、もう見かけることはあまりなく、手軽ではあるけれど、この時期の風物詩的存在ではなくなったような気がします。
とはいえ、やはり美味しいもの、美容と健康に効果ありの焼き芋を、この冬もいっぱい食べてしまうかも。お腹が張って、ついつい出てしまうのは難点ですが(汗。

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