アインシュタインも持ち帰った「コドモノクニ」
関東大震災の前年の1922年(大正11年)に創刊され、終戦の前年の1944年(昭和19年)まで“真の芸術に触れることで子どもたちの豊かな情操を育てたい”という思いから発行された幼児向け絵雑誌「コドモノクニ」東京社(現・ハースト婦人画報社)出版。
「コドモノクニ」は大正~昭和を感じさせてくれるレトロモダンなタッチの絵がたっぷり詰まった絵雑誌で、幼児を対象に、絵・おはなし・童謡・舞踊・劇・工作などをとりいれ、童画の先駆け的な雑誌でした。
この“絵雑誌”には、5色製版オールカラー印刷を用いたり、子供が手荒に扱っても傷まないよう厚手の紙が使用されたりと、日本初の試みが多数取り入れられた雑誌としても有名で、文学では野口雨情、北原白秋、西條八十、室生犀星、島崎藤村など、美術では岡本帰一、武井武雄、竹久夢二、藤田嗣治、東山魁夷といった、当時の一流の芸術家たちが参加していました。
その芸術性の高さから、あのアインシュタインが来日した際に祖国に持ち帰ったことや、当時の宣伝広告などから海外にも輸出されていたとか。
そして当時1冊50銭、今の感覚でいうとなんと4000~5000円もするたいへん高価であったにもかかわらず、コドモノクニは多くの読者をひきつけたそうです。
戦前の日本に子どもを対象にしたこうした質の高い贅沢な雑誌ができたのは、大正デモクラシーの潮流にのって、サラリーマン(当時は大学出のエリート)を中心とした都市の中産階級が台頭したこと、衣食住の西洋化が進みハイカラな文化が流行、東京には地下鉄が開通し人々はデパートで買い物をするようになり、都市文化が誕生します。そして近代的な教育制度の導入で幼児への教育熱も高まった背景がありました。
「コドモノクニ」の絵は、どこか懐かしく温かい、不思議な空気感に包まれています。
明治から大正初期までの絵本では、赤や黄などの原色が使われ非常に強い色合いでしたが、それまでの子ども向けの絵本にはなかった優しい色彩を意識的に用いられたそうです。それには、日本に数台しかなかった最新のオフセット印刷機械で、原画の持つ微妙な色を4色+特色(赤)により細やかな印刷技術と職人技で刷られ表現されました。
また、絵を重視するために大判に作られたため、さまざまな画家がユニークなレイアウトに挑戦することができたそうです。
西洋の絵本は、文章が四角い枠の中に入れられ絵と分離されているのが特徴、最初は模倣でしたが、創刊から少し経つと絵の中に文字を取り入れるようになり、文字と絵がみごとなコンビネーションを見せるようなレイアウトに変化します。つまり、夢あふれる絵と詩をどのように構成するかも画家たちの腕の見せどころだったようです。グラフィックデザイナーの先駆け的な感じでしょうか。
子どもが見て楽しいのは当たり前ですが、大人が見てもノスタルジー抜きに十分楽しめるのは、子ども騙しではない高度な仕事がしてあるということなのかもしれません。
デッサンが柔らかく子どもを伸びやかに描いた岡本帰一、無国籍風のファンタジーな世界が面白い武井武雄、筆遣いが大胆で軽妙な絵の初山滋ほか、日本画の東山魁夷や洋画の藤田嗣治、画家の竹久夢二、前衛芸術家の村山知義まで、様々に多くの画家たちが子どものために腕を競っています。洒脱で都会的な童画のイメージは、当時の子どもたちに強烈な憧憬を与えたにちがいありません。
これにより、「童画」という言葉が誕生し、文章のための添えられた絵ではなく一つの独立した芸術として日本の絵本の礎となり、また後に活躍する漫画家や作家やグラフィックデザイナーたちにも多大な影響を与えたそうです。
住宅やデパート、ハイカラな文化・風俗、また対照的な田舎の情景、当時の子どもの生活や遊びの描写は興味深く垣間見れるのも面白いところ。
こうして見ていると興味が尽きず、その時代の雰囲気を感じられ、いつまでも楽しんでいられそうです。
当時の「コドモノクニ」に掲載されていた4500枚を超える絵画作品は→「コドモノクニ掲載作品検索」で楽しむことができます。
出典:「コドモノクニ」
出典:日本の絵本100年の歩み
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