「酉の市」へ行ってきました
11月になるともうあたりは冬の気配が深まってきます。そんな中、毎年恒例の酉の市へ行ってきました。
相変わらずの賑やかさで、そして長蛇の列で大変でした。
今年は二の酉まででしたが、三の酉まである年はなぜ火事が多いと言われているのか。また、なぜ熊手なのか、などなどのお話です。
「三の酉まである年は火事が多い」の⁈
酉の市の頃には2ヶ月もないままその年が終わっちゃいますが、新年の時点で、今年のお酉さまが2回あるとか3回あるとか意識する人は非常に少ないと思います。
「酉の市」というのは、これから来る新しい年の諸祈願をお祈りする祭りなようで、「三の酉からの1年」と考えられるそうです。
大火説
俗説の由来に、明暦3年(1657年)1月18日に起きた江戸城本丸を含む江戸の6割を焼失する「明暦の大火」、明治44年(1911年)4月9日に起きた吉原遊廓全体と山谷から南千住にかけて延焼した「吉原の大火」の大火事の前年は“三の酉”までありました。
そうなると、まんざら根拠がないものでもないようにも思えます。
“三の酉”の頃には冷え込みも厳しくなり空気も乾燥し北風も強くなるので火事が起きやすい時期、戒めの意味もあったのでしょう。
新吉原へ繰り出した説
浅草の鷲神社はその西隣が新吉原で、鷲神社の祭礼の際には普段は締め切っている裏門を開いて通り抜け出来るようにしたそうです。
酉の市のついでに吉原見物が出来るということで、商いを営む店の主人や男たちが繰り出したそう。
店を守る番頭や女将さんたちは、3回も行かれたんじゃたまったものではない!と考え付いたのが「三の酉がある年は吉原は火事になるから行かない方がいい」と脅し文句で広めた説があります。
どれも俗説なので定かではありませんが、三の酉は、およそ一年おきにあるため、さほど珍しいわけでありません。
縁起物の熊手
江戸「酉の市」の発祥の神社、大鷲神社(東京都足立区花畑)で、神社の祭礼に併せて付近で“市”が開かれていました。
熊手や竹箒と言った日用の品々の販売が行われていたらしく、このうち熊手は「福や金をとりこむ(「とりこむ」は「酉」に掛けている)」として、江戸から訪れた参拝客の土産として人気が出て、酉の市と言えば「縁起物の熊手」と言われるほどになったそうです。
また、鷲の爪が福徳をかき集める“わしづかみする”を模したともいわれています。
「酉の市」はなぜ11月
天日鷲命(あめのひわしのみこと)は、諸国の土地を開き、開運・殖産・商売繁昌に御神徳の高い神様として古来よりこの地にお祀りされていました。その後、日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄り戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、そのお礼参りをさた日が11月の酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが「酉の市」です。
引用:浅草 鷲神社
「酉の市」とは
酉の市は11月の酉の日に行われる鷲(おおとり)神社の祭礼。
酉の日は一月の内に2~3回あります。最初の酉の日を「一の酉」、次を「二の酉」「三の酉」と言います。
酉の市は昔は「酉のマチ(「市」または「町」)」と呼んだといいます。酉の祭りの意味です。酉の市が立つ神社は東京近辺に約40ほどあるそうですが、今は浅草の鷲(おおとり)神社の酉の市がもっとも有名です。
鷲神社はその名の示すように鳥(酉)と関係の深い神社。よってその祭礼の日は酉の日です。
鷲神社は大阪の堺市に総本社とされる大鳥神社(日本武尊(やまとたけるのみこと)が白鳥となって降り立った場所に建った神社)があり東京近辺の鷲神社はその末社だそうで、日本武尊(やまとたけるのみこと)縁の神社として武士がその武運を祈るようになったことから、江戸時代に江戸近郊の鷲神社への参拝が盛んになったと言われます。
「人並に押されてくるや酉の市 (虚子)」酉の市が過ぎると正月が来る…という気分になります。
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