昭和のパワーあふれる革新的なポスターデザイン
1960年代から70年代の高度成長期に、寺山修司の「天井桟敷(てんじょうさじき)」、唐十郎(からじゅうろう)の「状況劇場」などの小劇場演劇ブームが起きました。
小劇場演劇とは、それまでの主流であった商業演劇と一線を画す、独自の表現や思想で実験的な舞台を繰り広げた劇団の活動で、「アングラ(アンダーグラウンド)演劇」とも言われます。
当時彼らが起こしたテント劇場や街頭劇など既成概念にとらわれない型破りな舞台は多くの若者を魅了しましたが、時にはその過激な表現はスキャンダルとして当時の社会に衝撃を与えました。
そのムーブメントの一翼を担ったのがポスターの存在でした。単なる公演の告知のみならず、それまでの演劇ポスターの枠を破る大胆で斬新なポスターの口火を切ったのはグラフィックデザイナー横尾忠則さん(2019年に放映された大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」のポスターもデザインしています)でした。
1960年に上京した後、劇場のステージデザインやグラフィックデザインを手がけ始めます。特に、アングラ演劇のポスターは、第2次世界大戦後の日本のアブストラクト(抽象芸術)なデザインと、短縮遠近法と平面を用いたスタイルで話題になったという。
ブレイクするきっかけとなったのが、左上の1965年に東京・銀座松屋で開催されたアート展に展示会用に手がけたポスター「Made in Japan, Tadanori Yokoo, Having Reached Climax at the Age of 29, I Was Dead」でした。
旧日本軍の軍旗として用いられていた旗がモチーフとして使用されているこのポスターでは復興が皮肉的に表現されていて、中央に描かれている、手にバラの花を持った首を吊っている人は横尾さん自身だそうです。1960年代という時代に、このような経済成長に対する政治的メッセージや自殺、ましてや自分自身を盛り込んだポスターを手がけるデザイナーはいませんでした。そして、ポスターとはクライアントのために存在する物として考えられていたため、この作品は人々を驚愕させたという。
このポスターと、政治的メッセージやグロテスクな暴力描写を盛り込んだその他の作品によって、時代の流行をつくりだし日本のポップカルチャー(大衆文化)をリードするデザイナーとして注目されるようになりました。
当時の他に類がないほど異彩を放っていた作品の特徴は、モダンデザイン(近代的デザイン)に背を向け土俗的な日本を表現に取り入れた点ではないかと思います。最初に評価した人が「日本的なるもの」に生涯こだわっていた三島由紀夫や寺山修司だったというのもうなずけます。そして横尾忠則さんが扱ってきたモチーフは宮本武蔵や高倉健などドメスティックなものも多い。日本人が郷愁として抱いている前近代を刺激することで作られた日本的な作品といえるのではないでしょうか。
なお、寺山修司は、まずポスター作りから演劇を始めたといいます。自分の作ろうとしている実験的な芝居をデザイナーに伝え、デザイナーはそれを視覚言語に変換してポスターをデザインする。この時点では台本もできておらず、明らかにポスターは芝居全体の最初の一歩として、公演を先導する役割を担っていました。なので、説明や告知という宣伝媒体としてだけではなく、ポスター自体が「作品」となっていました。
その後、グラフィックデザイナーとしての仕事は、ポスターからイラストレーション、レコードジャケット、ブックデザインなど、さまざまな印刷メディアへと展開し、さらに版画や絵画、映画といった芸術分野にまで広がっていきました。
60年代からの、もの凄くエネルギッシュな時代のアヴァンギャルドなポスターから現代の商業広告まで幅広いジャンルを横断しながら、極彩色サイケな色使いとエロスと妖しさがただよう毒気が散りばめられたイメージに貫かれた作品たちは、時代や国境を超えて視覚的な刺戟を与え続けているような気がします。
ちなみに、カタカナ職業で一番はじめに注目されたのがイラストレーターで、1970年前後の若い人たちの間では憧れの職業ナンバーワンだったそうです。
洗練された美しさをもつデザインのポスターも心地よいのですが、何故だか無性にちゃぶ台をひっくり返したくなるような衝動に突き動かされることもあったりして、そんな時は横尾忠則さん作品や昭和のグラフィックデザインや写真を眺めてみるのも良いかもしれません。
出典:横尾忠則が手がけたアートワー
出典:横尾忠則
出典:天井桟敷 (劇団)
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