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災害時の非常食にもなる「草加せんべい」

災害時の非常食にもなる「草加せんべい」

銘菓とは元々、特にすぐれた菓子、という意味を持つ上質な菓子のこと。地元の名産品やモチーフを使ったお菓子がお土産物として定着し、その土地の「銘菓」としてたくさんの人に親しまれています。
そんな、日本中に知られている(たぶん)埼玉県草加市の「銘菓」、堅焼きでパリッとした食感と何ともいえない醤油の香ばしい風味が特徴の「草加せんべい」について

「草加せんべい」のルーツ

“せんべい”自体は、飛鳥時代に中国から日本に伝わったとされています。今のうるち米やもち米などで作られた“せんべい”とは違い水で小麦粉を練ったものを油で煎ったものだったそうです。

草加せんべい

「草加せんべい」の由来に関してはいくつかの説があるようですが、よく知られているのは“お仙(せん)”さんのエピソードです。
今より約300年前(正確な年代は不明だそうです)、日光街道の草加宿松原に“お仙(せん)”というお婆さんが、茶店を出して団子を売っておりました。名物松原団子として、往来の人たちにたいへん親しまれておりましたが、毎日夕方になると残った団子を前の川に捨てておりました。ある日、通りがかりのお侍さんが「婆さん。捨てる団子はつぶして平たくして天日で乾かして、焼き餅として売ったらどうだ」と教えました。お仙婆さんは、それを早速作り売り出したところ、お客に喜ばれ、たちまち話題になったそう。
お仙(せん)の餅(もち=べい)で「せんべい」とも。
こうして日光街道に増えた名物の一つが、今の「草加せんべい」の元祖と伝えられています。
この餅は、その堅さから堅餅とも呼ばれ、庶民の保存食として重宝しました。

または、戦に持って行く武士の食料(保存食)だった乾餅、人々が長旅などに出るときに持参した乾餅(別名、堅餅)が起源との説もあります。

「草加せんべい」の始まりは、塩味をつけた堅餅とされています。
農民が米を粉をひいて蒸して練ってついて伸ばし、塩をまぶして焼いたものを、仕事の合い間などに食べていたようです。これが領内巡視中の家康公の目に留まり“事ある時の保存食としても良い”とお褒めの言葉をいただいたとか。
この農家のおやつの「塩せんべい」が、日光街道宿場町として草加が栄えるようになると、商品となっていったそうです。
草加せんべいは、初め「塩せんべい」と呼ばれていました。 江戸後期まで主流であった小麦粉に砂糖を混ぜた「瓦せんべい」のような甘いタイプのおせんべいと区別するためだったようです。
そして、草加の地は良質の水・醤油があったことから、醤油味の「焼きせんべい」が作られ名物になっていきました。
のちに舟で江戸にも伝えられ、江戸っ子たちの間でもおいしいと評判になりました。

草加せんべい

大正時代以降“草加せんべい”の認知度は高くなります。きっかけは“せんべい”が埼玉の名産品として天皇に献上され“天皇家が召し上がったおいしい草加の煎餅”は「草加せんべい」、として名称が全国に広がったことです。
出典:草加せんべいの歴史と現在・草加市役所

非常食にもなる「草加せんべい」

実家が近かったため小さい頃からおやつとして食べていた「草加せんべい」ですが、原料がお米なので腹持ちがいい、なので食事前は少ししか食べさせてもらえなかった思い出があります。自分なんて「せんべい」だけでも食事になっちゃいますね。

それはさておき、通常の賞味期限は6カ月、これだけでも長い感じがしますが、その10倍の5年まで延ばした長期備蓄が可能な煎餅が発売されています。
災害時の非常食といえば、アルファ米や乾パンが定番。
しかし、備蓄用のアルファ米は水を入れないと食べられないし、ましてようかんや乾パンではのどが渇いてしまいます。その点、せんべいはそのまま食べられ、お米のお菓子だから腹持ちはいいし、ご飯を食べる感覚に近いので非常時の食料になります。東日本大震災の時には好評だったそうです。

原材料がうるち米と塩だけのため小麦アレルギーの子どもも食べられ、ご年配の方まで食べやすい長期備蓄が可能な煎餅は、山香煎餅本舗ネットショップのこちらで→「災害備蓄用せんべい」で購入できます。(1袋20枚入りを12袋詰めた缶が8,100円税込)

それ以外にも、非常食セットなどあるみたいですが、結構おいしく食べちゃう人は普通のおせんべを常備して置いてもよさそうですね。自分はこの口です。

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