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「動物園」は娯楽施設?教育のため?はたまた癒しのため?

「動物園」は娯楽施設?教育のため?はたまた癒しのため?

動物園とは、動物を飼育し、教育・観賞などの目的で公開している施設ですが、前回の記事で“1866年(慶応2年)に本物の生きたライオンが初めて日本に渡来した”から日本で生息していない動物などいつ頃から持ち込まれたかなどなど気になり調べてみました。
ちなみに、日本は、動物園91・水族館52の計143園館(日本動物園水族館協会会員、2020年5月20日現在)もあり、アメリカに次ぐ世界第2位の動物園保有国となっています。

「孔雀図」西村重長 画
「孔雀図」西村重長 画(1700年代)出典:ボストン美術館

孔雀は、「日本書紀」598年(推古天皇6年)8月に新羅から贈られたと記録があり、その後もしばしば日本に渡来していますが、数が少ないので珍鳥とされ、江戸時代の初期頃から京都の四条河原をはじめ各地で見世物として客を集めました。孔雀は、その姿が美しいことだけで一番古くからある見世物になっていたようです。なお、日本に初めて外来鳥が持ち込まれたのは同年4月、カササギを2羽持ち帰ったという記録があります。

「新渡駱駝寫眞」歌川芳豊 画
「新渡駱駝寫眞」歌川芳豊 画(1863年)出典:ハーバード大学

ラクダは599年(推古天皇7年)に百済からロバと共に初めて渡来しました。このラクダは1862年(文久2年)に渡来したらしく、翌年の1月から江戸両国橋西詰、同4月から浅草奥山にて相次いで見世物に出ました。1821年(文政4年)に渡来して一大ブームとなったのはヒトコブラクダで、人々がフタコブラクダを目にしたのはこの時が初めてでした。図は浅草奥山の見世物の際に描かれたもののようです。ラクダの寸法まで記載されています。

「ラクダの見世物」歌川国安 画
「ラクダの見世物」歌川国安 画(1824年)出典:アメリカ議会図書館

日本人が唐人の格好をして、銅鑼(どら)やトライアングルをたたき、いかにも異国からの渡来と盛り上げているヒトコブラクダ興行の図。両国での入場料は1人32文と高価でしたが、日に5000人を超えることもあり、ついには半年以上の超ロングランに。見世物小屋の周辺で売られた品々も錦絵はじめラクダグッズも多彩だったようです。

「虎之図」松川半山 画
「虎之図」松川半山 画(1860年)出典:ハーバード大学

虎は、平安時代前期の890年、猫好きの宇多天皇に新羅から虎の子二匹が献上されたのが初めての渡来だそうです。江戸初期の「不可徳物語(1648年刊)」に京都四条の鴨川で虎を見世物にしたことが記されていますが、一般に知られるようになったのは末期の1861年にオランダ船が横浜へもたらした虎が江戸で興行されて以来と考えられています。この興行は見世物として人々が満員になるほどの人気になったそうです。なお、虎の絵は室町時代後期からよく描かれるようになったとか。

「今昔未見 生物猛虎真図」河鍋曉斎 画
「今昔未見 生物猛虎真図」河鍋曉斎 画(1860年)出典:メトロポリタン美術館

豹は、1827年(文政10年)に朝鮮より長崎へ豹の子(虎の子と称した)メス2匹がもたらされました。1860年(万延元年)にはオランダから豹を購入し、吹上御所で将軍家茂が上覧後、江戸の両国橋西詰で見世物としました。ただし、江戸時代の日本人は虎がオスで、豹はそのメスと思っていたらしく「虎」と宣伝したようです(なので画の名称が虎となっています)。豹の見世物小屋の中には竹が植えられ、見物人が集まると一羽の鳩を投げ入れて、豹がそれに飛びかかる姿をみせていたそうです

「印度船来象」歌川芳形 画
「印度船来象」歌川芳形 画(1863年)出典:ボストン美術館

象は、室町時代の1408年、若狭湾に漂着した南蛮船が持ち込み足利義持へ献上したのが初めてとされます。江戸に象が来たのは八代将軍吉宗の時で、1728年(享保13年)に広南(ベトナム)から注文した雌雄のインド産子象が長崎に到来しました。翌年に江戸へ到着しますが、途中、京都で天子様に拝謁した時、象でありながら、高い位階(従四位)に叙せられたとか。

「浅草奥山ニ於て興行 天竺渡り大象図」歌川国重 画
「浅草奥山ニ於て興行 天竺渡り大象図」歌川国重 画(1860-70年代)出典:国立国会図書館

象は1824年(文政7年)と1863年(文久3年)にも渡来しています。1863年では西両国広小路でポルトガル船によって横浜へ来たインド産の3歳の象が見世物として出され、両国の賑わいはほとんど象の見物人だったそうです。これが江戸中の評判になり、十数組の象錦絵が飛ぶように売れたといわれています。

虎や象、ラクダなど、日本に初めて来た動物を見ることは御開帳のありがたい神仏を拝むのと同じように、悪病を祓うなどの現世の御利益があるといわれていたことも、見世物に人が集まる一因であったようです。

そして、それまで見世物の対象だった珍獣珍鳥の類を、雨天にも見せる常設展示場として、湯茶も接待する茶屋にしたものが登場します。
1716年(享保元年)の大阪見聞記には、籠に入れられた雉(きじ)・鶴・孔雀などの鳥を見ながら茶が飲める「孔雀茶屋」と呼ばれた茶店の記述が見られ、寛政年間(1789-1801年)には「花鳥茶屋」と呼ばれる施設が江戸の両国広小路・上野山下広小路などに開設されました。展示動物は孔雀茶屋よりも多様になり、鹿・孔雀・オランウータン・ヤギ・七面鳥・インコな どがおかれ、草花や盆栽などにより園景の整えられた中で見物客は備付けの床机に腰かけて茶を喫しつつ見物したそうです。
嘉永年代(1848-54年)になると、浅草の浅草寺境内に動物を主体にした「花屋敷」と呼ばれる見世物園地が開設したりしました。

「摂津名所図会 孔雀茶屋」竹原春朝斎 画
「摂津(現・大阪府北部と兵庫県一部)名所図会 孔雀茶屋」竹原春朝斎 画(1796-98年)出典:wikipedia

大きな檻に入っているのが孔雀で、親子連れが楽しそうに見ている様子が描かれています。左下には男性が餌皿を手に持ち、池の水鳥に餌を与えています。茶屋にやってくるのは、武士から町民、男も女も子どもからお女中まで多様な人たちでした。

「花鳥茶屋」歌川豊国 画
「花鳥茶屋」歌川豊国 画(1792–93年)出典:ボストン美術館

花鳥茶屋は雨天でも鑑賞できる建物があり、酒や落語も提供されるような娯楽的要素の強い形態だったようで、“孔雀をご覧じて、お茶を召し上がれ”と客を呼び込み繁盛したそうです。入場料は16文で、呼び込みの口上は見世物時代の名残(なごり)だとか。

「花鳥茶屋」歌川豊国 画
「花鳥茶屋」右の拡大図

日本では、江戸時代の初期から外国産動物が移入され民衆がそれを見て楽しむという風潮があったようですが、見世物的性格が強く、また花鳥茶屋などは娯楽施設として分類され、定まった場所で動物を一般に公開していたという点においては江戸時代の動物園と言えますが、教育を目的としている近代動物園の源流とはなっていないようです。

「東京風景 上野動物園」写真
「東京風景 上野動物園」写真(1911年/明治44年)出典:国立国会図書館

日本最初の近代動物園は、1882年(明治15年)に上野恩賜公園内に帝室博物館(現・東京国立博物館)が移転開設され、付属施設として恩賜上野動物園の前身が作られたのが始まりといわれています。なお、「恩賜(おんし)」の語は1924年(大正13年)この施設が宮内省から東京市に下賜されたところからきているとか。
当初、猛獣は熊のみで、日本産動物が主体となった普通に見かける動物ばかりの小規模なものでしたが、1887年(明治20年)以降、トラ、ゾウ、ヒョウ、カバなどの外国産動物が導入され、それに伴って入園者数も増加し動物園は市民生活の中に定着していきました。

余談ですが、博物館とは、大昔の人々の遺失物や遺棄死体・食べ散らかした残飯・夫婦げんかして壊れた食器類・海外から収集した盗品や偽造品などを、研究・教育のために保管・展示する施設、でしょうか(笑。日本の博物館は、諸国の骨董や珍品を集めて展示する博覧会の延長にあったようで、東京上野の東京国立博物館も、1881年(明治14年)第二回内国勧業博覧会の一施設を引き継いで発足したもので、大衆文化華やかな日本では、当初の博物館は研究・教育機関というより、常設展示となった見世物小屋のレベルであった、とか(汗。
また、法令上は動物園は博物館の一種とされているようです。

花鳥茶屋は、明治以後は各地に動物園が開設され、しだいに無くなったようですが、大人にとっての動物園はやはり娯楽施設のような気がします。子どもにとっては多くの珍しい動物を間近で見ることができる学びがありますが。
ちなみに、東京動物園協会の「動物園の楽しみ方」に関する調査結果では、大人が動物園に行きたくなるのは、“癒されたい気分の時”が多いのだとか。大人になり様々な理由で上野動物園にかなり行きましたが、癒されたいとかなかったような…。自分はやはり大昔の人々の遺失物を見るのが好きかなーと、身も蓋もない終わり方になってしまいました(汗。

出典:動物園
出典:花鳥茶屋
出典:上野動物園
出典:近代日本における動物園の発展過程に関する研究
出典:日本語を味わう辞典

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