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なんだかワクワクするようなレトロな宣伝メディア「チンドン屋」

なんだかワクワクするようなレトロな宣伝メディア「チンドン屋」

チンドン屋というと、賑やかな商店街や、あるいは新装開店した前などで、派手な衣装と鳴り物を数人が演奏しながら景気よく練り歩く光景が思い出されます。
まるで時代劇とサーカスが一緒に来たような、そんな感じのレトロな宣伝メディアですが、ここ何年も目にしていないので、もしかして死語に近いかもしれないと思い「チンドン屋」について調べてみることにしました。

物売りの一つ「善か善か飴」
物売りの一つ「善か善か飴」。出典:Flickr

日の丸旗で飾った飯台に飴を入れて頭にのせ、太鼓を打ち「よかよか、どんどん」とはやし唄いながら飴を売り歩いた飴売。明治頃の様子。

「軍用パン」の宣伝用チンドン屋
「軍用パン」の宣伝用チンドン屋。出典:Flickr

日露戦争(1904年[明治37年]から1905年まで)での食糧となった木村屋の「軍用パン」、ビスケットのような乾パンだったようです。

チンドン屋は街廻り・店頭前で行う広告宣伝業者で、その鳴り物の音が鉦と太鼓が主になっていて、“チンチンドンドン”というように聞こえるので昭和初期頃に「チンドン屋」と言われるようになったとされます。

江戸中期、派手な衣装で団扇太鼓を叩き鉦を鳴らし、面白く歌い踊る「飴売」が街頭に現れました。
1845年(弘化2年)、その飴売りの一人「飴勝」は大坂・千日前の法善寺を拠点に、竹の鳴り物と売り声で人気があり、その口上の見事さから寄席の客寄せを請け負うようになり、これがチンドン屋の元祖とされています。
その後、飴勝の仕事を引き継いだ芝居好きの勇亀という人物が歌舞伎や文楽の開演の合図「東西、東西(とざい、とうざい/もと相撲で、東から西までおしずまりなさい、という意で言い始めたという)」という口上をまね宣伝を行っていたことから、1880年(明治13年)頃に「東西屋」と呼ばれるようになり、やがて街頭宣伝業の一般名詞へとなったようです。

「広目屋(チンドン屋)」(1885年)を描いたに錦絵
「広目屋(チンドン屋)」(1885年)を描いたに錦絵。出典:木村屋總本店

1875年(明治8年)に木村屋が売り出したアンパンを、その名を広めるため楽隊を使った斬新な宣伝(洋装の男性が大きな太鼓を担ぎ、太鼓を叩きながら洋装の婦人とともに街を練り歩く)「広目屋」を取り入れます。1885年(明治18年)には当時人気だった蛎殻(かきがら)町の「中島座」がこの木村屋の広目屋宣伝の風景を取り入れた芝居を上演し大評判となり、その時の絵のようです。

東京では、1881年(明治14年)に大阪出身の秋田柳吉が楽隊を用いた路上広告「広目屋」を始め、木村屋が売り出したアンパンの宣伝用に初めてチンドン屋を用いたとされています。
なお、開店の披露をすることから「披露目(ひろめ)屋」「広目屋」というとか。また、広目屋は広告代理店・装飾宣伝業の先駆けとなったようです。
以後、真似をする人が増えて路上広告業は「広目屋」と呼ばれるようになります。明治中期、広目屋が大阪に伝わると「東西屋」も楽隊を取り入れ、1898年(明治31年)には沼津から伊勢路と43日間「ライオン歯磨」の巡回広告を行うなど、楽隊広告の人気が高まりました。

明治末期になると広告は新聞広告が主流となり東西屋・広目屋は徐々に仕事を失い、都市部から地方へと移し4~5人編成で鉦や太鼓を鳴らしながら街回りをする広告へと変わっていきました。
大正時代には、当り鉦(あたりがね)・締太鼓(しめだいこ)・平胴太鼓を組み合わせ一人で演奏できるようにした太鼓セットが考案され、多くの東西屋、広目屋がこれを用いるようになり、後にこの太鼓セットは、チンドン屋が使うことから「チンドン太鼓」と呼ばれるようになります。

1885年(明治18年)の広目屋
1885年(明治18年)の広目屋。出典:Flickr
明治時代の広目家の広告
明治時代の広目家の広告。出典:Wikipedia

「チンドン屋」の呼称が確認できる用例は、1930年(昭和5年)の長編小説『真理の春(細田民樹 著)』などに見られます。昭和初期までは一人で華美な衣装を身につけ口上を行い町回りをしていることに対してチンドン屋の呼称が用いられていて、無声映画時代に効果音を演奏していた楽士がトーキー(発声映画)の出現により失業しこの業種に参入するなど、時代ごとに様々な芸を持つ人材が流れ込み、それまでの東西屋・広目屋の楽隊広告も「チンドン屋」という呼称へと変化していったとされます。

戦前の全盛期は1933年から38年頃とされ、戦中の1941年(昭和16年)にはチンドン屋および各種大道芸は禁止、1950年代になると戦後復興にともなう経済成長にのりコンクールが開催されるなどチンドン屋の黄金時代が到来しました。
しかし1960年半ば頃からはテレビの普及など広告の発展や交通事情の悪化により、チンドン屋人口は昭和後期には数百人にまで減少してしまいました。

1947年(昭和22年)のチンドン屋
1947年(昭和22年)のチンドン屋。出典:Flickr
1950-60年代のチンドン屋
1950-60年代のチンドン屋。出典:Flickr

一時は“古くさい・時代遅れ”と絶滅寸前でしたが、若い人が参入する流れが生まれ、チンドン屋のもつダイレクトなコミュニケーションが見直されているそうです。漫然とCMを打っても物が売れない時代、雇い主と客の間に入ってコミュニケーションをとれることがチンドン屋の強みなのでしょう。
商店の宣伝が主要な仕事とはいえ、大企業のキャンペーンやお祭り・イベント・パーティーなどの余興、結婚式など、賑やかな雰囲気作りのために呼ばれることも増え、特に若手とされるチンドン屋はパフォーマンスを営業案内にSNSなどを活用し活躍の場を広げています。
そして、伝統的なチンドンの技術を受け継ぎながら、海外進出、ライブ出演など時代にあわせた新しい活動を展開し、今や、ウェブ広告時代の現代でアナログな宣伝方法をとるチンドン屋は希少な存在で(2019年時点でプロのチンドン屋は全国で約30チームほど)、日本の魅力を発信する伝統的な芸能の一つになっているそうです。

チンドン屋の音楽はなんだかワクワクするような、メロディが聞こえてくるとついつい一緒について行きたくなってしまうような、その賑やかさ華やかさで笑顔が生まれたりする独特の魅力があるような気がします。チンドン屋は広告請負業ですが、どちらかというとエンターテインメントという雰囲気を醸しているので「広告エンターテインメント業」といってもよいかもしれませんね。

ちなみにエンターテインメント(entertainment)とは、日本式略称でエンタメとも言いますが、人々を楽しませる行為(パフォーマンス)を意味し、主にその場かぎりで消費される演劇や映画、芸能などについていいます。
絵画や建築作品のように希少性と永続性がないので、エンタメの提供者は、なるべく多くの人々に比較的安価な価格で見てもらうことによって日銭を稼いでいます。また、演劇や寄席芸能などは、文学(書籍)のようにいつまでも自分の手もとに置いて楽しめるものではないので、大して関心のない団体のツアー客や、何度も同じ演目を見に来る物忘れの激しい客をたよりに糊口をしのいでいます。音楽や映画などは、パフォーマンスを記録したメディアが販売され、子どもをだまして大量販売に結びつけることも可能なので、演劇や芸能関係者よりはお気楽な生活を送っている関係者も多い…かも。
ついでに余興(よきょう)とは、おまけの(余)エンターテインメント(興)という意味で、結婚披露宴や歓迎会などの宴会で参加者が披露する歌や演芸などをいいます。あくまでおまけの催しであるから、歌い手や芸をしている人に謝礼が支払われることはないし、いくらメシが不味くなるような歌を聴かされたり、悪寒をもよおすような芸を見せられても、参加費や祝儀からいくばくかが返金されることもない、まだチンドン屋さんを呼んでくれた方がましかも(笑。

出典:チンドン屋
出典:チンドン屋/コトバンク
出典:ちんどん通信社
出典:ちんどん屋/日本文化いろは事典
出典:日本語を味わう辞典

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