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今はもう見られないアナログな遊び「羽根突き」

今はもう見られないアナログな遊び「羽根突き」

以前記事にした「縁日」の中で書いた江戸時代に浅草観音附近で毎年12月の17・18日開かれていた「浅草市(歳の市)」(歳の市の始まりは万治年間1658-61年頃の浅草と云われています)、ここから「羽子板市(はごいたいち)」だけになっていき現在でも17~19日に開催されていますが、つい数日前、押入れから出てきた昭和な羽子板が見つかり、これがきっかけで今ではほとんど見られなくなったお正月時期の遊び、そしてきっと廃れていく運命にあるのかなと思い、羽根突きについて調べてみることにしました。

「羽子板見世の賑ひ」歌川国貞 画(19世紀)
「羽子板見世の賑ひ(一部)」歌川国貞 画(19世紀)出典:演劇博物館デジタル

江戸後期の羽子板屋さんの店先、人気役者の舞台姿をデザインした色とりどりの羽子板がずらりと並んでいます。羽子板を売る店は年末の風物詩になっていました。

羽根突きは、長方形の柄(え)のついた板の羽子板で、無患子(ムクロジ科の落葉高木)の種子(黒色の球)に3~5枚の鳥の羽をさしこんだ羽根を突き返す正月の遊びです。双方に分かれて羽根の受け渡しをする「追い羽根」と、一人で突いて数を競う「突き羽根」の2通りがあります。
追い羽根は羽根の飛距離程度離れて向かい合い交互に突き合い、失敗して羽根を地面に落としてしまったら勝った者が負けた者の顔に墨でいたずら書きをする、このような光景をドラマやマンガなどで見たことがある方も多いと思います。自分は小さい頃、お正月に遊んだ記憶がありますが、案外やったこと無い方が多いのではないでしょうか。

「千代田之大奥 追ひ羽根」楊洲周延 画
「千代田之大奥 追ひ羽根」楊洲周延 画(1895年)出典:国立国会図書館。羽根突き勝負は身分とは関係なしの遊びだったとか。

歴史としては、室町時代に羽のついた分銅を蹴る武術や舞や遊びが日本に伝来し、平安時代から童子の遊びとしてある日本の毬杖(ぎっちょう/木製のハンマーみたいな物で木製の毬を相手陣に打ち込む遊び)と合わさり、現在の羽根突きの原型になったと云われています。

文献では1432年『看聞御記(かんもんぎょき)』正月5日の条に、宮廷で公家や女官たちが男組・女組に分かれて胡鬼子(こぎのこ)勝負(追い羽根)を行った記事がみえ、これは負けた方が酒を振舞ったという賭けを伴う大人の遊びだったようです。羽子板は胡鬼板(こぎいた)とも呼ばれ、羽根は胡鬼子と言い、蚊を食べるトンボに似せたもので、蚊退治・子供の厄病除けのまじないとして羽根突きをしたのがその起こり、とも云われています(当時の疫病は蚊を媒介として広まることが多く蚊除けは大事な事でした)。
なお、羽根の無患子(ムクロジ)は“子が患(わずら)わ無い”と表記するので女児への無病息災の願いが込められているとか。

ちなみに「羽子板」という名称は、室町時代1444年の文献『下学集(かがくしゅう)』に「正月に羽子板を用いた」という記述があり、これが最初と言われています。江戸中期から羽子(はご)あるいは羽子板と呼ばれるようになったそうです。

当初は羽根突きの道具として用いられていましたが、戦国時代には羽子板が羽根を打ち返すことにかけて悪事や邪気を打ち返して追い払う、という意味が付加されて祓(はらえ)や縁起としての装飾が施された縁起物とされ、徐々に厄払いとしても使われるようになり、魔除けとして正月に女性にあげる習慣もこのころ出来たとされます。

「花盛士農工商 羽子板師」二代歌川国貞 画
「花盛士農工商 羽子板師(一部)」二代歌川国貞 画(1849年)出典:東京都立図書館

羽子板に絵を描き製作しています。羽子板は観賞用の豪華なものと、実際に突き合う用の簡素なものとがあります。観賞用のものは押し絵羽子板と呼ばれ、役者の似顔絵や日本舞踊をかたどったものなど華やかな柄が多くあり、正月飾りとして座敷に飾られたりもしました。
押し絵とは、下絵を描いた厚紙を細かい部分に分けて切り抜き、それぞれの部位に適した色の布に綿を入れて膨らみをもたせくるみ、図柄に合わせて接着した、布細工による貼り絵の一種(伝統的な装飾法)。なお、接着剤にはお米をといた“のり”を使っていたので、羽子板をネズミにかじられないようにネコが飼われていました。

しんぱん羽子板尽(おもちゃ絵)
「しんぱん羽子板尽(おもちゃ絵)」無款(1875年)出典:artelino-Japanese Prints
郷土羽子板(おもちゃ絵)
「郷土羽子板(おもちゃ絵)」無款(1890-1910年)出典:artelino-Japanese Prints

江戸時代には、武家が女児の誕生を祝って羽子板を贈答するようになり、これが庶民にも広がると魔除け・厄除けの縁起物として重宝され、正月の贈答にも使われた他、女児の初正月に羽子板を贈るという風習もできました。このことが正月に羽根突きが行われることの由来となっているようです。
また、羽根突き遊びは元禄年間(1688-1704年)以降に盛んになり遊び道具として定着したとされます。
文化・文政年間(1804-30年)の頃からは人気役者の似顔を写した押し絵羽子板が流行し、明治時代には新たな技術によって羽子板の種類は更に増えて全盛期を迎えました。その後、形や素材を若干変えながらも、現在におよんでいます。
そして今では東京の冬を代表する光景として海外にまで広く知られる行事となっています。

昭和な羽子板

ということで、まとめてみると、羽根突きは正月の遊び、羽根を羽子板で打ち合い落とした者が負けとなるゲーム。つまり、バドミントンの傍流のような遊びですが、ルールはアバウトでたいして面白くないせいか(それでも昔の子どもたちは、女子を中心にこの遊びに一日中興じていたという。お疲れ様です)、盛り上げるために負けた者が顔に墨でいたずら描きをされるという罰則が設けられたのかも。
室町時代に賭け事から成立した遊びらしいですが、盛んになったのは江戸時代、農村ではあまり見られず、主に武家や町家の女子の間で正月の初遊びとして楽しまれていたそうです。
羽根突きが成立したころは、子どもが蚊にさされない“まじない”としての意味があったらしいですが、正月にそんなことをやっても効果が夏までもつとは考えられないので、正月遊びになった頃はそんな“いわれ”も忘れられていたのだろうと思われます。
なので最近では、いつの間にか女性全般の魔除け、とか諸々の邪気・災いをはね(羽根)のけるという語呂合わせ“縁起を担ぎ”で贈られています。

蛇足で、縁起を担ぐの「縁起」は、ものごとの吉凶の前兆をいいます。「担ぐ(かつぐ)」は、ものを肩に乗せるということですが、手で持つには重すぎたり、大きすぎたりする荷物を運ぶとき肩にかつぐ場合の「担ぐ」をいうことが多いです。そのため、「縁起を担ぐ」という言い方は、「縁起」がまるで重い荷物のように精神に重圧をかけている、つまりものごとの吉凶にとらわれている、縁起のよい悪いを必要以上に気にするという意味で言われます。受験生が試験の前日に「試験に勝つ」ために「カツ丼」を食べるといった習慣は、縁起を担ぐ行為の代表的なものですが、このように実際の縁起かつぎは「担ぐ」というほど重々しくなく、単なる気休めのような行為である場合が多い、と思われます(本人にしてみれば、よほど重いものを担いだつもりかもしれませんが)。
しかしやはり日本人は縁起物好き(自分もですが)、縁起物の詳しい記事はこちら→ソラマメを大きくしたような形の赤い人形「だるま」

出典:羽根突き
出典:羽子板
出典:羽子板市と歳の市の違いは?
出典:羽根突き/Wikipedia
出典:日本語を味わう辞典

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