慰霊を目的にしていなかった日本最古の「花火大会」
花火というと、やはり隅田川の花火大会でしょうか。知人がある寺の檀家だったため、敷地内の建物屋上で宴会しながらゆっくりと花火を見た思い出があります。ただ風向きによって燃えカスがパラパラと降ってくるのが難点でしたが。
日本の夏といえば花火…。ということで、日本の花火はいつから楽しまれていたのでしょうか。
隅田川を挟んで武蔵と下総の二国に架けられた橋ということで両国橋の名が付けられ、その界隈を両国と呼びました。江戸時代、花火といえば両国橋近辺での納涼イベントとして有名で、群衆が押し寄せ通行を規制したほどでした。
花火は、鉄砲伝来の後の天正年間(1573-92年)に一般の火術とともにオランダ人またはポルトガル人によって伝えられたようですが、起源ははっきりしていないそうです。
織田信長の『信長公記』第十四巻に、1581年(天正9年)「御爆竹の事」という記事があり、これが日本で初めての花火大会だ(どのような花火か不明)という説もありますが、現在見つかっている信頼できるもっとも古い記録で、打ち上げ花火に近いものを初めて見た日本人は、徳川家康のようです。
『駿府政事録』の中に「二之丸立花火」の記事があり、1613年(慶長18年)英国王ジェームズ1世の使者・のジョン・セーリスが、駿府城で披露したと伝えられています。
ちなみに、花火の原形は烽火(のろし/狼煙)で、古くからおもに信号として世界の各地で用いられていました。紀元前1190年頃にはトロイ人が「消えない火」を、678年にはシリア人が「ギリシア火」などを用いていたと云われています。しかし「花火」の出現は、黒色火薬の発明(1242年)以後のことで、イタリアのフィレンツェを中心として15世紀頃までにはヨーロッパ各地に広まっていったようです。
橋の両側に火除地として広小路が設けられ、見世物・芝居・辻講釈などに屋台店も並び、江戸随一の盛り場として昼夜の遊興で賑わっていました。両国川開きは旧暦5月28日に行われ、8月28日までの納涼期間中は花火が打ち上げられ、江戸庶民を魅了しました。
そして、隅田川での花火の記録は、1628年(寛永5年)、上野の寛永寺の創建に関わった僧・天海が浅草寺を訪れ、近くの隅田川で船遊びをした際もてなしのために花火を打ち上げた記述が初見という。
その後、毎年のように行われるようになった日本最古の花火大会・隅田川花火大会が始まったのは、1733年(享保18年)5月28日(旧暦)が最初と云われています。当時は「両国川開き」と呼ばれていました。
これは、前年に餓死者90余万人に達したといわれる享保(きょうほう)の大飢饉があり、幕府(8代将軍・吉宗)が大飢饉やコレラの疫病による死者の供養のため水神祭を行った際、鎮魂を目的として花火を打ち上げたのが由来とされています。
なお、このときに花火を打ち上げたのは、日本最古の花火師・鍵屋で、1659年(万治2年)に売り出した「火の花」「花の火」「花火」と称した玩具花火のヒットで繁盛していたそうです。鍵屋の番頭が独立して始めたのが玉屋で1808年(文化5年)のこと。これ以降は、両国川開きで、両国橋の上流を玉屋、下流を鍵屋が担当するなど、今に伝わる「玉屋~、鍵屋~」の掛け声は、この鍵屋と玉屋の競い合いに端を発し、ライバルとして花火がさらに発展したようです。
そして、ヨーロッパの花火が筒形の玉なのに対し、日本のものは球形で花の形も丸く均斉のとれたものに発達しました。現在、日本の花火の製造、打上げ技術は、世界有数のものになっています。
当時の花火大会で打ち上げられた花火は20発ほどだったとか。花火は赤色光と白色光しかなく、色彩は単調だったようです。明治時代になって海外から多くの化学薬品がもたらされると現代のようなカラフルな花火が誕生しました。
隅田川の涼み船は慶長年間(1596-1615年)頃に始まりますが、しだいに大型になって、やがて屋形船(やかたぶね)が造られるようになります。金持ちは納涼船を借り切り、芸者や料理人を乗せて船から見物、庶民は屋形船や小船で川に出たり、川べりから花火を楽しみました。
江戸で花火が盛んになったのは、平和な世が続き火薬が軍事用に使われなくなり、火薬製造業者が武器に変え様々な花火を創り出したことと、大名や旗本や商人たちに豪勢な舟遊びが流行ったことも影響しているようです。
しかし、上記の鎮魂のため、という記述はよく散見しますが…、隅田川花火大会が始まったのは、倹約を旨とする享保の改革真っ只中。1733年の正月には、飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが行われています。また、コレラが最初に記録されているのは1822年(文政5年)、江戸にコレラが蔓延したのは1858年(安政5年)から1860年(万延元年)にかけて、そして他の疫病も特に享保期に目立って流行していません。加えて、徳川吉宗が始めたという史料はまだ発見されていないようです。(「鎮魂の花火の民俗学」丸山泰明 著、日本学報)
つまり、享保の大飢饉やコレラと隅田川花火大会は無関係で、慰霊を目的にしていなかったことになります。
それとは別に、世界大百科事典より「花火は元禄時代(1688-1704年)以後、夏には隅田川で規模の小さい茶屋花火が行われるようになり、また花火船があって、船遊山(ゆさん)の客の求めに応じて代金をとって花火を上げて見せるようになった。そして旧暦5月28日から8月28日までの間を納涼期間に定めて(当時、隅田川は重要な交通・輸送路だったため江戸庶民が川で遊ぶことは禁止されていました)、川べりの食物屋・見世物小屋・寄席などが夜半まで営業が許されたので、その第1日目の5月28日(のちには7月下旬)を「川開き」と称し、両国橋と新大橋(江東区)との間で大花火を上げることが行われるにいたった。その費用は船宿と両国辺の茶店などから支出された。」
とあるので、夏に納涼として金持ちが船を借り切り、求めに応じて小さいながらの花火はありましたが、納涼期間が定められたことから大々的に花火大会が1733年に行われるに至った、が正しいようです。
いずれにせよ、江戸庶民の憂さ晴らしや、幕府への批判をかわすためには打って付けの行事のように思えてしまいます。なお、このフィクションのようなストーリーは、明治以降に少しずつ形作られていったとか。
とはいえ、日本人にとって火は、人々の心身に知らず知らずのうちに付く罪けがれを祓い清める力を持ち闇を照らすものとして、古来より神聖なものとされてきました。
暑さも募り、水に親しむことの多くなるこの時期には疫病も増え水の事故も多発するために、各地で川祭りや水神祭が行われます。川開きの多くは、これら水の災厄を祓(はら)い、事故者の霊の供養をしようとする川辺の祭りで、このことと納涼の風と結び付き、ちょうど花火を打ち上げる時期と相まって、いつしかお盆の迎え火や送り火などと同じように、死者を尊び慰めるために、華やかな打上げ花火という特別な炎に祈るようになったのかもしれません(と思いたい)。
その後も東京の夏の景物詩として1961年(昭和36年)まで「両国川開き」という名称で行われ、翌年から交通事情の悪化などから一時廃止されましたが1978年(昭和53年)に「隅田川花火大会」と名を改め復活しました。今年は10月23日(土)に開催されるようですね。
ということで、花火大会とは、春の桜、秋の紅葉と並んで、日本の夏を彩る風物詩にして、瞬間芸の大イベント。春の桜も観賞期間は短いですが、花火はそれをさらに濃縮した集中観賞型のイベントであり、人々は祭の興奮と空虚感の落差を味わうために集うのかもしれない…。
出典:花火
出典:川開き
出典:隅田川花火大会について
出典:真夏の風物詩、花火。
出典:日本語を味わう辞典
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