たかがチラシ、されどチラシの「引札」
引札とは、現在のチラシや折込広告、手配りのビラにあたる明治から昭和初期にかけての広告チラシです。
語源は定かではありませんが、“お客を引く札”から引札、という解釈と、古くは「配る」ことを「引く」と言っていたので「配る札」という意味で使われたという説があります。当時は、札回し・安売り目録書き・口上書・書付・挿広告とも呼ばれていました。
明治29年に、三井越後屋は三井呉服店と改称し、呉服屋で初めての陳列販売を開始した。また、地方の御客様へも商品を配送するという商法を既に取り入れている。
定説としては、1683年(天和3年)に三井越後屋(現・三越伊勢丹)が日本橋駿河町に移転、その開店告知に「呉服物現金安売無掛値(現金安売掛値なし)」という札を配布したことが引札の始まりと云われています。
引札がこの辺りから使用されるようになった理由としては、この頃から商業活動が活発になったことが考えられます。文化・文政期(1804-30年)には盛んに出回り、江戸では引札、大坂では“ちらし”で通っていたようです。
“ちらし”は、「引札をまき散らす」から「散らし」となり“ちらし”と呼ばれるようになったと言われています。
ちなみに、世界で最初の「びら」はローマ時代の本屋の店先に手書きで、最初の印刷した「びら」は、イギリスのカクストンの「サルズバリーのパイ(1477年)」という宗教書の広告であると伝えられています。英語のbillは公文書についている印章を意味する中世ラテン語のbullaに由来し、広告を意味するようになったのは1470年代だとか。
店開きなどで贈るおめでたいものを江戸では「絵片(えびら)」と言い、主として「引札」は配る広告、「びら」は貼る広告というように区別していました。
引札は、初め「安売り札回し」といって安値で売る宣伝のために用いられましたが、後には開店披露や売り出しのために、市街の辻々、湯屋、髪結い床、あるいは神社・仏閣、地蔵、道祖神などにまで貼付されました。
また、正月の挨拶用に作られた正月引札(絵片)は、新年の挨拶ですから商品の広告などはされておらず、正月に合っためでたい雰囲気を演出するための絵(七福神や恵比寿様、鶴・亀など)が描きこまれているものが多く、暦が組み込まれたものもあります。年末のカレンダー配りはこの時代の習慣の名残なのかもしれませんね。および、お得意先やご近所に配っていたようですから現在でいうところの年賀状の様なものでしょう。
商品が出回り、庶民の購買力が高まって、不特定多数を相手とする商業への転換期にあった江戸後期から明治初頭にかけての引札の中には、戯作文調によるものも見られます。店主による御挨拶調のものが大半であった中で、文章技巧を駆使した引札は大変目を引いたようです。平賀源内を始め、仮名垣魯文、河竹黙阿弥等の作家達が小説や戯曲の制作と同時に引札の文章を書いていたのです。
おまけに、当時の江戸は諸外国と比較にならないほど識字率が高かったらしく(武士はほぼ100%、庶民層でも男子50%前後に読み書きができ、幕末期にはすでに世界一だったといわれている)、文字を使った広告宣伝がより効果的だった事が伺えます。
引札は、業者が図版を用意し各店舗が必要枚数を購入したのち、既に絵が描かれている状態の空白部分に、地元の印刷会社で店や商品名・住所を刷って入れる、という方法で制作され、お得意様に配布しました。
江戸時代は木版印刷(凸版印刷の一種)でしたが、明治に入ると銅版印刷や石版印刷などの高度な技術が台頭し、より鮮明で華やかなものになっていきました。それらの多くは江戸時代の錦絵師の末裔達によって描かれたといわれています。
江戸時代には数十万枚も配られていたという記録もあり、1856年(安政3年)には上野松坂屋が引札を5,500枚も配布したとあります。そして引札を初め、団扇(うちわ)絵や絵暦などあらゆる方法で広告は行われ明治へと引き継がれて、中期になると引札からチラシ(大阪と同じく)と名称を変えていきました。
1872年(明治5年)に東京日日新聞から新聞附録で初めて使われ、のちの新聞広告の隆盛とともに、またポスターに取って代わられました。
「資生堂」は1872年(明治5年)漢方薬が主流の時代に日本初の洋風調剤薬局として東京・銀座に開業しました。1897(明治30年)に化粧品業界へ進出しています。
資生堂の記事はこちら→単なるフリーペーパーではなかった資生堂「花椿」
ビール広告の記事はこちら→明治、大正、昭和初期のレトロ感満載のビール広告
現在では当時の大衆的な芸術と、人々の生活を伝えてくれる資料としてその価値が見直されていますが、当時は美しいものは年中壁に貼っておいたり、また壁や襖などの穴隠しなど、使われ方は非常に雑だったようです。なので、ごく一部の版元や商売で必要とした人以外は取っておく人はいなかったと思われます。
しかし、引札は広告媒体であると同時に、庶民にいちばん近い芸術だったのかもしれません。そのものが伝えたい情報は、店や商品、行事のことだけではなく、流行の絵や伝統的な画風、有名な物語や物や事など様々あり、制作者もキャッチフレーズやアイデアを凝らして見た人の印象に残るように工夫したことがうかがえます。
それから、明治後期から大正期のチラシは、印象的なキャッチフレーズを用いているものが多くなってきますが、その時代に有名なのが三越呉服店の「今日は帝劇、明日は三越」(チラシではなく新聞広告に用いらた)です。帝劇(帝国劇場、明治44年開場)の人気にあやかり同等に位置づける狙いで、これにより三越はより繁盛したそうです。
このことから、「カルピスは初恋の味」や「グリコ一粒300メートル」など、一度聞いたら忘れられないようなフレーズを用いた広告へつながっていきました。
物質的な生活向上への意気込みなど、様々な人間の欲望により引札が発展していき、広告という語が定着したのは明治時代に入ってからのこと、広告は変化し進化して現在はデジタルへ移行していますが、より一層印象付けるとしたら紙媒体の方が優れていると感じるのですが、どうでしょうか。
出典:引札/コトバンク
出典:ちらし
出典:引き札/Wikipedia
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