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違和感を覚える「二礼二拍手一礼」や「神社」について

違和感を覚える「二礼二拍手一礼」や「神社」について

神社というと、観光、毎年11月の酉の市(今年は行けませんでした)、そして新年最初の行事、湯島天神への初詣。
日常的に神社に通っている人は少ないと思いますが、やはり年に一回は訪れてしまう「神社」についてのお話です。

神社とは神道の神様を祀っているお社(やしろ/「屋代」とも)、神道はもともと自然崇拝を起源としているため、その信仰対象は「八百万(やおよろず)の神」(ご神体は「依り代・憑代(よりしろ)」とも呼ばれ神が宿る場所・物は神社によって様々)といわれるほど数が多く、日本全国にある神社の数は約8万5000社(文部科学省資料)、登録されていない小神社を含めると10万社を超える神社があるそうです。多くの神社は、有名な神社から祭神を分霊(ぶんれい・わけみたま)し、祀っています。

そして、神社には名前の最後に付けられている社号(神社の称号)により違いがあるそうです。その社号は、祭神の尊貴さや社格の高さによって、大神宮、神宮、宮、大社、神社、社、に分けられます。その他、俗社号として天王、権現、明神、山王があります。ただ戦後はGHQにより制度としての社格は廃止されましたが、現代でも社格の考え方自体は残っているようです。
別格の存在なのが「伊勢神宮」で正式名称は地名を冠しない「神宮」、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされています。
なお、神道の中でも最高神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)であるという考えが一般的です。

神社の起源はというと…紀元前200年頃の縄文時代までさかのぼるといわれ、古くから厳かな山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」が降臨される神聖な場所とされ敬っていたようです。そして次第にそれらの場所に折々に仮の祭場を設け、祭事を行うようになりました。しかし臨時の祭場では不自由なこともあり、有力な豪族などは祈祷のための恒常的な社を建てはじめ、次第に立派な社へと発展していきました。これらが各地にも波及し、現在につながる神社の形になったとされます。
なので、“神社には常に神がいる”とされたのは、社が建てられるようになってからだと言われています。

日本最古の神社はというと諸説ありますが、奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社といわれています。祭神は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)で、古事記や日本書紀には、大物主大神が大国主神(おおくにぬしのかみ)に国造りのため三輪山に鎮座することを望んだとの伝承が記されています。
三輪山そのものをご神体とするため神殿がなく、拝殿の奥の鳥居(縄鳥居)から直接に三輪山に向かってお祈りするという、古の時代の神さまへの祈祷の仕方が残されています。
他にも、三重県熊野市の花窟(はなのいわ)神社、京都府宇治市の宇治上(うじがみ)神社、兵庫県淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮、福岡県朝倉郡筑前町の大己貴(おおなむち)神社が古い神社と伝えられています。
ちなみに、日本最北端に位置する神社は北海道の宗谷岬神社、日本最南端の神社は沖縄県宮古島の宮古神社、日本一標高の高い神社は静岡県の富士山本宮浅間大社だとか。

以下、錦絵には神社や鳥居の絵が多いので、絵に沿って解説しています。

「出雲国大社集神(一部)」歌川貞秀 画
「出雲国大社集神(一部)」歌川貞秀 画(1857年)出典:演劇博物館、国立国会図書館(全画)

旧暦10月は神様のいない月の神無月(かんなづき)、出雲では神在月(かみありづき)といってこの月は出雲大社に八百万の神が集まります。「出雲国大社集神」は、名前が書かれた様々な神々が大社に集合している画です。旧暦11月は霜月(しもつき)ですが、異名で「神帰月(かみかえりづき・しんきづき)」「神来月(かみきづき)」「神楽月(かぐらづき)」とも呼ばれ、出雲大社に集まった神々が元の国に帰っていく月という意味もあります。

「六十余州名所図会 出雲大社ほとほとの尊」歌川広重 画
「六十余州名所図会 出雲大社ほとほとの尊」歌川広重 画(1853年)出典:ボストン美術館

「ほとほと」とは、小正月には尊い神が人々に祝福を与えるために来訪するという信仰から興った行事で、正月14日の夜に顔を隠した若い人が各戸を尋ね、供物を受け取って帰るというもの。女性たちがそれぞれ手に持っているのは家々で飾っていた注連飾りでしょうか、小正月を祝う行事の華やいだ様子を伝えています。背後の松や杉、先を行く2人の女性や鳥居などが靄で霞んで描かれ、出雲大社の幽玄とした雰囲気が感じられます。

出雲大社は、古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれ、神代(神話時代、神武天皇が即位するまでの時代)の創建と伝えられています。正式名称は「いずもおおやしろ」といい、主祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、農業や縁結びの神として信仰されています。そして、大社と名乗ることが許された唯一の神社です。

「出雲国大社集神(一部)」歌川貞秀 画
「六十余州名所図会 芸州 厳島祭礼之図」歌川広重 画(1853年)出典:演劇博物館デジタル

嚴島神社の重要な祭礼の一つ「管絃祭」、旧暦六月十七日(7月下旬~8月上旬)で夏の盛りのお祭りです。夜半に船が地御前より還幸(天皇が行幸先から帰ること)し、まさに大鳥居にさしかかろうとする華やかな場面を描いたものです。日本三景の一つでもあり世界遺産にも登録されている平安時代の寝殿造が美しい海上社殿。主な祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、創立は推古朝593年と伝えられています。

「都百景 建仁寺町蛭子社」歌川芳豊 画
「都百景 建仁寺町蛭子社」歌川芳豊 画(1860年)出典:立命館ARC

栄西禅師が宋から帰国の途中、暴風雨にあい船が沈没しそうになった時、ゑびす神の加護で無事帰国することができたことから、建仁寺(1202年創建)を建てる際、まず境内に恵比須神を祀り鎮守社としたのが起こりと伝えられています。ゑびす神は海から得た魚を米や日用品にかえ、物々交換を通して生活を豊かにすることを教えた神だといわれ、昔から商売繁盛の守り神として信仰されてきました。七福神で唯一日本生まれの神様で、毎年1月の「十日ゑびす」祭は有名。

鳥居について…由来は「古事記」に登場する天照大神を天岩戸から誘い出すための「常世長鳴鳥(とこよのながなきどり、鶏)」にちなみ、神前に鳥の止まり木を置いたことが始まりとする説など、諸説あります。人間が住む俗界と神域の境界で、神域への入口を示す門の役割を果たすものです。もともと色は白で、神仏習合により仏教で魔除けの意味をもつ赤色に塗られるようになったといわれています。

下記、愛知県・熱田神宮の創建は仲哀天皇元年(古墳時代)あるいは646年(飛鳥時代)、主祭神は熱田大神(あつたのおおかみ)で、三種の神器の一つである「雨叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、別名:草薙剣/くさなぎのつるぎ)」を祀る神社として知られています。
なお、「八咫鏡(やたのかがみ)」をご神体としている三重県・伊勢神宮と熱田神宮は「一体(天照大神)分身の神」を祀る神社であり、日本国を支える2柱であるといわれています。

「東海道名所図会 宮驛熱田社」河鍋暁斎 画
「東海道名所図会 宮驛熱田社」河鍋暁斎 画(1863年)出典:ボストン美術館

熱田神宮の前を行進する将軍家茂の行列を、宮司たちが見送っている様子を描かれています(生麦事件で政情が緊迫、陸路で伊勢国桑名を目指した)。1945年(昭和20年)に戦災で焼失していますが、江戸時代は浮世絵にあるような5階建ビル位の高さがあり拝殿に続く階段も高くて長い壮大なものだったかもしれません。

「浪花百景 天満天神地車宮入」中井芳瀧 画
「浪花百景 天満天神地車宮入」中井芳瀧 画(1860年)出典:ボストン美術館

大阪の祭りといえば天神祭。氏地(うじち)の町々や天満青物市場・堂島米市場の仲間達らが出した地車(だんじり)は、鉦や太鼓で大層賑やかに囃(はや)しながら天満の町中をめぐり次々と大阪天満宮の境内に集まります。この地車宮入は天神祭宵宮(よいみや)のハイライトで盛大な祭りでした。

日本中でとくに系列社の数が多い三大神社に数えられるのが、稲荷神社八幡神社天満宮(天神社)になります。
稲荷神社の総本社である京都・伏見稲荷大社の創建は711年(奈良時代)、標高233mの稲荷山全体が信仰対象になっています。
全国に4万社あまりある八幡様の総本宮は大分県・宇佐(うさ)神宮で創建は725年(奈良時代)、祭神は応神天皇(誉田別尊/ほむたわけのみこと)。中世には武神として武家の間で信仰を集めました。
天満宮は菅原道真を祭神とする神社で、天神社、菅原神社など合わせて全国に約1万2000社あります。福岡県・太宰府天満宮(919年創建/平安時代)と京都・北野天満宮(947年創建)が全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として、近年は学問の神として篤く信仰されています。

「稲荷神社まつり-子供の遊び 初午」山本昇雲 画
「稲荷神社まつり-子供の遊び 初午」山本昇雲 画(1910年)出典:artelino-Japanese Prints

お稲荷さん」といえば、朱色の鳥居、「正一位稲荷大明神」の幟、狐の石像。稲荷社の正一位とは、京都・伏見稲荷大社の祭神(宇迦之御魂神/うかのみたまのかみ=食物の神・稲荷神)に、942年(平安時代)朱雀天皇より授与された最高位の神階です。稲荷神社の総本社は京都府の「伏見稲荷大社」ですので、全国のほとんどの稲荷神社は請願に基づき、稲荷神の分神・分霊をして他の場所に移して祀ったものです。江戸時代に入って、稲荷神は“流行神”ともいわれて全国の津々浦々に広まり、今では日本の神社の内で稲荷神社は3万社以上を数え、個人や企業などに祀られているものや山野や路地の小祠まで入れるとさらに膨大な数になるようです。なお、狐は稲荷神の使い、あるいは眷属(けんぞく/神の使者)とされます。出典:稲荷神

「江戸名所道化盡 九 湯島天神の台」歌川広景 画
「江戸名所道化盡 九 湯島天神の台」歌川広景 画(1859年)出典:ボストン美術館

湯島天神での風景。小高い場所にあるため展望も抜群で、遠くには上野の不忍池が見えます。出前の途中であろう蕎麦屋が野良犬に足を噛みつかれ運んでいた蕎麦を運悪く、近くを歩いていたお侍の頭に。お供はめっちゃ笑ってますが…蕎麦を頭から被ってしまい怒っているお侍の表情が面白く笑いを誘います。

「東京名所四十八景 神田明神社内年の市」昇斎一景 画
「東京名所四十八景 神田明神社内年の市」昇斎一景 画(1871年)出典:東京都立図書館

神田明神で行われた多くの人で賑わっている師走の風物詩「歳の市」の様子です。明治の新時代を迎え断髪し帽子をかぶった紳士も、丁髷姿の江戸っ子たちも、大凧、しめ縄、若水桶、しゃもじ、海老や裏白(うらじろ/シダ植物で正月のお飾りに使う)など、新年を迎えるための正月用品や縁起物を我先にと買い求めています。

江戸初期に浅草寺で始まった歳の市は、江戸中頃になると深川八幡を皮切りに、浅草寺、神田明神(神田神社)、芝神明(芝大神宮)、芝・愛宕神社、麹町・平河天神など東京各地の寺社で次々に開かれ、境内は多くの人で賑わっていました。その後、店鋪商業の発達に伴い、伝統的な露店の歳の市は次第に姿を消しましたが、今でも浅草寺の羽子板市や薬研堀歳の市などが人々に親しまれています。

「日光東照宮全望図(一部)」歌川芳盛 画
「日光東照宮全望図(一部)」歌川芳盛 画(1881年)出典:artelino-Japanese Prints

徳川家康を神格化した東照大権現を主祭神として祀る神社。日本全国の東照宮の総本社的存在で、久能山東照宮と上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられます。日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺に分かれ、総称して「二社一寺」と呼ばれていて、この二荒山神社と輪王寺は奈良時代に山岳信仰の社寺として創建され、東照宮よりはるかに長い歴史をもっています。1999年12月2日に「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されました。
出典:日光東照宮

最後に…一般的な参拝の作法は「二礼二拍手一礼」と言われていますが、東京都神社本庁の「参拝の作法」というページには、“私たちが神社にお参りする際の作法には厳格なきまりはありません。敬意の表し方は人それぞれですし、参拝の作法も神社や地域によって特色があります”、という記述があり、この作法は後付けだったようです。
確かに、二礼二拍手一礼など小さい頃は聞いたことがなかったし、聞かされたこともなかったような気がします。
もともとは神職の作法で、神前に玉串を捧げ二礼二拍手一礼を行う玉串奉奠(ほうてん)という儀式、つまり玉串を捧げることと二礼二拍手一礼はセットになっているようです。
浸透したのは平成の時代になってかららしく、やはり違和感を覚えます。神社の威厳を示すために広めたのでしょうか、不明です。

神道は、教祖も教典ありません。“こうしなさい”という言語化された教えが存在しないため、「教」ではなく「道」という字が当てられています。
なので、神社に参拝するということは思いを込めながら祈念すればいいことで、作法しきたりに関係なく自由でいいのではないか、と感じました。

出典:神社/Wikipedia
出典:神社/コトバンク
出典:神社/ニコニコ大百科
出典:社号

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