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長屋からアパートメント、そして昭和な「アパート」からスマートホームへ

長屋からアパートメント、そして昭和な「アパート」からスマートホームへ

自宅を出て初めて住んだ住宅が、最寄り駅から徒歩7分の近隣よりも安かった木造2階建てアパートの1階角部屋、しかしここは…いわゆる“出た”物件で数か月で引っ越しし(怖かったです。涙)、これに凝りて今度は駅1分の新築5階建て鉄筋コンクリート造の賃貸物件、次は駅8分の新築8か10階建て鉄筋コンクリート造の賃貸物件、その次が新築分譲マンションで最後が中古一戸建て、などと住むところが色々と変わりましたが、やはり住環境や部屋は大事だなと思いました(ちなみに、新築に3回住めることは幸せなこと、と誰かに聞きましたがどうなんだろう)。
ということで、賃貸物件のアパートやマンションについて調べてみることにしました。

1972年(昭和47年)銀座「中銀カプセルタワービル」
1972年(昭和47年)竣工の東京・銀座「中銀(なかぎん)カプセルタワービル」。出典:Flickr

黒川紀章氏が設計し、世界で初めて実用化されたカプセル型の地上13階・地下1階建集合住宅です。解体・建て替えが決まっていますが、一度住んでみたかったビルです。

アパートというと、木造2階建ての賃貸用集合住宅というイメージがありますが、アパートとマンションを明確に区別する法律は存在しないそうです。

アパートとは英語の“apartment(アパートメント)”を日本人が勝手に略して使っている言葉で、現在では、〇〇したくなる欲求をどうにか我慢できる程度の隣人と壁をへだてて住まう集合住宅・共同住宅のこと、になっています(汗。
日本では主に賃貸用の集合住宅をアパートと呼び、売買対象となるマンションと区別しています。そのため、マンションの方が高級なイメージを持たれやすく、アパートは「安アパート」「ぼろアパート」「古アパート」などといったネガティブな接頭語と愛称がよく、したがって日本で“高級アパートに住んでいる”と主張しても、“たかが知れている”と軽く見られがちなので日本在住の外国人は注意が必要かも。
もっとも英語の“apartment”は、もとは“仕切られた部屋”つまり「個室」という意味でしか用いられていなかったので、個室程度の広さの日本のアパートの方が原語に忠実な用い方、かもしれません。

なので、大家さんがネームバリューを重視して木造2階建ての物件に「〇〇マンション」と付けることもできますが、一般的にアパートが木造や軽量鉄骨造、マンションが鉄骨造や鉄筋コンクリート造と構造で区別しているようです。
ちなみに、マンションという語は共同住宅の意味がほとんどない「大邸宅・豪邸」という英語からきていて、民間の業者が公共アパートと異なる高級感を出す目的で勝手に名づけたもの、日本では中高層集合住宅の俗称として使われています。最初に建てられたのは1950年代中頃、東京都だとか。

ですが、2階建て以上の集合住宅が造られ始めた明治時代、しばらくは英語の“apartment”からとった「アパート」が集合住宅の代名詞でした。

1842年(天保13年)「旧新発田藩 足軽長屋」
1842年(天保13年)新潟県新発田市「旧新発田藩 足軽長屋」、寄棟造・茅葺の8世帯向け棟割長屋で国指定重要文化財。出典:Wikipedia

世界の歴史では、人間が集まって住む集合住宅は、紀元前1580年~紀元前1085年頃のエジプトのテーベという人口が密集した都市で既に4階建ての集合住宅が存在し、多くの庶民が集合住宅に住むことが一般化した古代ローマ時代には、8階建てにも及ぶアパート形式集合住宅が建設されていたそうです。
現代のようなアパートは、19世紀中頃から産業革命によって引き起こされた人口の都市集中に対する解決策の一つとしてアメリカで生まれ、発達してきました。

日本では、長屋暮らし(『日本書紀』や『万葉集』の時代からあったとされます)も集合して住む一つの形かもしれませんが、2階以上積層するような建築で、複数の住戸が同一建物の中に集合して住む形式が都市に導入されたのは明治末期とされます。

初期の非木造である集合形式賃貸住宅が登場したのは、1894年(明治27年)に東京丸の内に煉瓦造の三菱一号館が竣工し、その後十三号館まで揃って「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」と呼ばれる西欧風の町並みを造り出したとき多くがオフィスビルとして建設されますが、その中で1904年(明治37年)に竣工した六号館と七号館に住宅が設計されたことでした。これは、棟割(むねわり)長屋形式で各棟6戸ずつの12戸でしたが、日露戦争後の好景気にオフィス需要が高まり、住宅としての利用は少ないまま貸オフィスに改装されたそうです。

1894年(明治27年)丸の内「三菱一号館」
1894年(明治27年)丸の内「三菱一号館」の落成(馬場先門通)。出典:Flickr

六号館と七号館の住居は、各住戸に玄関・台所・浴室・便所等を備え、押入のついた畳敷きの部屋や床の間もありました。当時のビジネスマンのための職住近接の実現という、現代でも評価されそうな住宅構想でした。この三菱一号館は、現在はそっくりに復元したレプリカが美術館になっています。

木造で積層の集合住宅が日本で初めて造られたのは、1910年(明治43年)に建った東京・下谷(したや)上野倶楽部という洋風の外観を持つ63室を収容した木造5階建て賃貸アパートでした。上野公園に隣接しており、洗面・浴槽・電話は共同で使用の間取りは1LDK、実際に住んでいた人たちの職業は公務員・会社員・教師が主で独身者はいなかったとされます。東京大空襲で焼失しましたが、完成した11月6日は「アパート記念日」に制定されました。

1905年(明治38年)「本郷館」
1905年(明治38年)築、国の重要文化財になる可能性があった「本郷館」。出典:Flickr

アパートとは違いますが集合住宅として、こちらは1905年(明治38年)に東京文京区本郷に建てられた木造3階建て70室余りを擁する巨大な下宿屋「本郷館」。最初は旅館として、1919年頃に朝夕賄い付きの高等下宿屋となり、下宿人は地方の富裕な家庭に育った東大・芸大の学生だったようです。その後、老朽化を理由に2011年に解体されて跡地には同名の集合住宅が建っています。

日本で最初の鉄筋コンクリートのアパートが出現するのは1915年(大正4年)、三菱が長崎県の端島(はしま/通称・軍艦島)に建てた30号棟の炭鉱社宅でした。7階建てで内部は木造の6畳一間、いわゆる1Kが145戸詰め込まれた密度の高い空間だったようです。(国内最古の鉄筋アパートとなっていますが、少し前のニュースで、風化が進み余命あと半年程度だそうです)
なお、世界では1903年にオーギュスト・ペレという建築家がパリのフランクリン街に建てたアパートが最初とされます。

1925年(大正14年)御茶の水「文化アパート」
1925年(大正14年)当時の東京・御茶の水「文化アパートメント」。出典:大林組

1925年(大正14年)には東京・御茶の水に、まるでアメリカのホテルを持ち込んだような純洋風の「文化アパートメント」が建設されました。今のJR御茶ノ水駅と水道橋駅の中間あたりの神田川に面して建てられたエレベーター付き4階建てで、地下には駐車場、1階には店舗・食堂・カフェ、住戸は2~4階に家具が作り付けの合計42戸つくられた本格的アパートとされています。このアパートには多くの外国人が申し込んだといいますが、1986年(昭和61年)に老朽化により取り壊されました。

1927年(昭和2年)表参道・同潤会青山アパート
1927年(昭和2年)表参道・同潤会青山アパート(2003年解体、現在は表参道ヒルズ)。出典:Flickr
1929年(昭和4年)台東区・同潤会上野下アパート
1929年(昭和4年)台東区・同潤会上野下アパート(2013年解体、現在はザ・パークハウス上野)。出典:Flickr

公的に建設されたアパートとしては、1923年(大正12年)の関東大震災による復興のために設立された財団法人・同潤会(どうじゅんかい)によって建設された鉄筋コンクリート造の集合住宅「同潤会アパート」があります。1926年(大正15年)の墨田区・中之郷アパートを皮切りに34年(昭和9年)の新宿区・江戸川アパートまで、東京と横浜に計16か所・総住戸数約2800戸のアパートが建設されました。
多くは鉄筋コンクリート造の日本初の本格的な耐震耐火構造をもつ3~4階建てで、住戸は2~3室のほか炊事室・浴室・水洗トイレも完備し、集会室や中庭などを備えた先進的な設計が行われていて、主としてホワイトカラー層の住居となりました。

同潤会アパートの成功によってその後建設された日本の集合住宅に大きな影響を与え、昭和初期には東京における民間集合住宅の建設量は増加し、アパートメントブームが起きました。

現在まで残っているものは銀座1丁目に建つ「奥野ビル」、旧称「銀座アパートメント」で1934年(昭和9年)に完成した7階建て集合住宅です。トイレとお風呂は共同ですが銀座の一等地で、ワンルームの高級アパートとして建てられたそうです。

1932年(昭和7年)~1934年「銀座アパートメント(現・奥野ビル)」
1932年(昭和7年)~1934年に建てられた東京・銀座「銀座アパートメント(現・奥野ビル)」。出典:Flickr

鉄筋コンクリート造の地下1階・地上7階建てで、民間の建物として初めてエレベーターを導入。二重扉(内側は蛇腹扉)の手動式で階数表示はアナログの針指し式エレベーターは今も現役で稼働しています。現在は20軒を超えるギャラリーやアンティークショップがテナントとして入っているとか。

他にも、1933年(昭和8年)に建てられた東京・江東区にある4階建ての「清洲寮」、木造では1935年(昭和10年)~1938年にかけて7棟が建てられ3棟が現存している東京・港区の洋館造りアパート「和朗(わろう)フラット」なども現役集合住宅として使用されています。

1935年(昭和10年)「和朗フラット」四号館
和やかに朗らかに暮らせるようにと命名された「和朗フラット」四号館。出典:Flickr

アメリカのコロニアル様式(植民地様式の意。17-18世紀のイギリス・スペイン・オランダの植民地に見られ、特に植民地時代のアメリカで発達した建築様式)をモデルに、造りは日本の伝統である在来工法が施された家だそうです。この四号館の建物は2019年に文化庁の登録有形文化財に登録されました。

しかし、こうした質のよいアパートは数も少なく高家賃だったことから、民間の零細な経営による木造2階建ての住戸は6畳一間、台所・便所は共用の、いわゆる「木賃(もくちん)アパート」が1950年代から多く建てられ、大都市に集中してくる若年労働者や低所得者層を対象として、旧来の一戸建てまたは長屋建ての借家にかわって流行し始めました。
こうして1960~1970年代には木賃アパートがアパートのイメージをさせるほど量が増加し、民間住宅供給の主流となっていったとされます。
なお、木賃アパートとは江戸後期以降、安宿を木賃(きちん)といったことから民間の安い木造賃貸アパートを木賃(もくちん)と呼んだとか。

鉄筋コンクリート造の集合住宅は日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)から造ることができず、始まったのは戦後の1948年(昭和23年)東京・高輪に4階建て2棟48戸の東京都営高輪アパートを実験的に建設されてからになります。
以後、住宅不足を緩和する目的で公営住宅として次第に全国各地に建設されるようになり、とくに1955年(昭和30年)日本住宅公団(現・UR都市機構)が設立されてからは、2DK・3DKの間取りを基本とする大規模団地建設によるアパート群が形成され、その量は急激に増えていきました。
しかし、このような団地は戸数主義からくる低廉で画一化な共同住宅で、戦前の文化アパートメントにみられるような高水準の住宅形式であるとはいえなかったようです。

民間住宅業者でも1950年代中頃から大資本によるエレベーター・駐車場・管理人付きの中・高層高級集合住宅が建設され始めましたが、日本におけるアパートという名称は賃貸の低質な立体長屋を連想させるようにすっかりイメージダウンしていたために、入居者募集や販売に際して“アパートよりグレードアップされた集合住宅”という戦略として「マンション」や「シャトー(城)」などと高級化を連想させる名称を冠したとされます。
このマンションという呼称が市民権を得て一般化していきましたが、現代では低質のものにも名称だけはマンションとつけられたものが多くなってきているようです。または、旧来の長屋みたいな低廉賃貸住宅のイメージを払拭するためにタウンハウスやテラスハウスと呼ぶことも多いとか。

東京台東区入谷の昭和なアパート
東京台東区入谷の昭和なアパート

一時期、昭和な日本の住宅を指して「ウサギ小屋」と揶揄されたりしたことがありましたが、これは1979年(昭和54年)にEC(ヨーロッパ共同体)の秘密文書に「日本人はウサギ小屋とさして変わらぬ住宅・環境の下に生息している働き中毒」と、日本の狭い集合住宅(団地・アパートなど)を評していった言葉。ですが今では日本の住環境も向上し、団地もブタ小屋くらいにはなったので、もう誰にもウサギ小屋とはいわせないし、いわないでしょう。
ウサギ小屋はまた、巣に籠もって無表情で不平不満もいわないウサギの印象をそこに住む住人の姿に重ね合わせて皮肉っていた言葉なのかもしれません。しかしこの点に関しても、集合住宅に住む日本人はウサギというよりブタ化しているので、現在では焦点のぼやけた指摘となっていると思われます。

そして現在、アパートにIoTを搭載した、あるいは自主的に設置した(息子のコンクリート造の部屋がこうなっていて、尻に話しかけている)「スマートホーム」も話題になっており、アパートの先進化が進んでいます。

出典:アパート
出典:集合住宅
出典:同潤会アパート
出典:日本のアパート
出典:日本語を味わう辞典

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