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赤から白、肉色に変わった「化粧」

赤から白、肉色に変わった「化粧」

化粧というと、昔、真面目でお堅い感じの男性の方とある仕事の打ち合わせ後、交流のため居酒屋へ行き、楽しく飲んでいたのですが、その人がある程度(かなりかも)酔いがまわってきた時に、いきなりオネエ言葉になりサラリーマンバッグから決してキレイとは見えない白塗り化粧したウエディングドレス姿の写真を見せられ、“マリリン”と言うの、よろしくね!…という、あまりのギャップに驚愕した思い出があります。

ブリタニカ国際大百科事典によると、化粧というのは“人間の顔を中心として首、手、足などの表面に直接化粧料を施し美化すること。装身としての衣服と化粧は元来一体で本質的に同一”とあり、昔からだと歌舞伎、今でしたらコスプレとあるくらいだから、人間が本能的に有している美的欲求の欠けた所を満たしたいためなのかな、と。
ということで、化粧について色々と調べてみました。

「姿見七人化粧 鬢直し」喜多川歌麿 画
「姿見七人化粧 鬢直し」喜多川歌麿 画(1792-93年)出典:ボストン美術館

浅草寺境内水茶屋の難波屋の美人“おきた”をモデルにした合わせ鏡の図柄、手鏡を覗かせた後から、姿見に映るあでやかな美人が描かれた絵です。襟足(えりあし)の美しさということも美人の条件のポイントの一つでした。

古代の日本における化粧は、石器時代の土偶、縄文~古墳時代の人物埴輪(はにわ)、奈良時代までは左右の頬(ほお)に朱を塗った顔や体に赤い顔料を施す「赤化粧」が行われていたそうです。古代では、ベンガラ(赤色酸化鉄)や辰砂(しんしゃ/赤色硫化水銀)を辟邪(へきじゃ/鹿に似て二角を持つ想像上の動物で疫鬼を懲らしめ退散させる善神)のために用いていたとされる説があり、「赤化粧」も何らかの呪術的な役割を持っていたと考えられています。

なお、化粧の起源は、およそ4万年前の旧石器時代の洞窟壁画に顔に赤い顔料を塗った人物が描かれていたり、赤い顔料のついた人骨が発見されていることなどから4、5万年前には化粧に類する行為が行われていたと推定されています。そして、古代では女性よりもむしろ男性が煌びやかに化粧をしていて、現代のように女性が男性よりもより化粧に興味を示すのは、長い人類史のなかでむしろ例外だとか。

飛鳥時代になると大陸から紅や白粉(おしろい)がもたらされると、692年には僧観成(そうかんじょう)によって日本で初めて鉛白粉が作られ、この時の女帝・持統天皇に献上したところ、大変喜ばれたという。歯を黒くするお歯黒の風習も飛鳥・奈良時代以降、平安時代初期には眉墨(まゆずみ)を引くということも盛んに行われ、新しい美意識の下で「白化粧」が行われるようになります。

室町時代には武家の制度や礼儀作法が整備され、化粧にも細かい決まりができ、身分、職業、年齢など社会的な立場を表すものとなっていきました。そして化粧は貴族階級から武家階級、さらに庶民にまで広がっていきました。

江戸時代、女性のたしなみとして化粧は欠かせない身だしなみになっていきます。この頃の化粧は、口紅の赤、白粉の白、お歯黒や眉墨の黒という3色から構成されていました。

「高島おひさ 合せ鏡」喜多川歌麿 画
「高島おひさ 合せ鏡」喜多川歌麿 画(1795年)出典:ボストン美術館

両国米沢町の煎餅屋高島の娘“おひさ”をモデルにした手鏡に映る図柄、右手に持つ鏡の背面模様に高の字と柏の紋で高島おひさと判し、左上に徳利と蛇などの謎解き絵で「高島おひさがとっくりと身(巳)じたく」と読めるそうです。合せ鏡で仕上がり点検しているようです。

「襟粧い」喜多川歌麿 画
「襟粧い」喜多川歌麿 画(1790年頃)出典:artelino-Japanese

顔の美しさを一緒に描いた襟足に白粉を塗る女性。和服が日常着でしたので襟足など首まわりも目立つため、顔だけに塗るというのではなくデコルテまで塗っていました。化粧下地として、化粧水や鬢付け油をつけ、粉末状の白粉を水で溶いて指や刷毛でのばして塗りました。

化粧水は、水と野薔薇の花から作った「花の露」や「江戸の水」「京の水」、糸瓜(へちま)の蔓を切ってぽたぽたと落ちてくる水分を化粧水として使いました。
ちなみに「花の露」という化粧水は市販もされており、江戸を代表する人気化粧水でした。また、光沢や香りが出て肌をきめ細かくし顔の腫物をいやす、と複数の効能がある万能化粧水だったそうです。

「当世美人合 かこゐ」歌川国貞 画
「当世美人合 かこゐ」歌川国貞 画(1827年)出典:ボストン美術館

刷毛で白粉を塗る女性。刷毛に水をつけて丁寧になんども刷けば、白粉がよくのび、艶もでる。また、粉白粉をつけた後、湿ったてぬぐいで目の上、まぶたをそっと押さえると濃淡が出て顔がお面のようにならない。1813年に発行された美容書『都風俗化粧伝』より。白粉の濃淡を使いこなしナチュラルにきれいに仕上げるかを実践していたようです。ただ、贅沢を禁じる天保の改革(1841年~)以降、薄化粧になっていき、幕末には白粉を塗らない女性も少なくなかったそうです。

「お歯黒」鈴木春信 画
「お歯黒」鈴木春信 画(1765-70年)出典:ハーバード大学

お歯黒染めを行う女性を描いた絵、画像左下にはお歯黒道具が見えます。お歯黒をつけるためには良く歯を磨いてからでないとうまく出来なかったようです。そのためお歯黒をつけている人はお歯黒と歯磨きの効果とで歯周病の予防にもなり虫歯が少なかったといわれています。お歯黒は最低でも3日に1回、歯磨は起床後に一度磨くだけだったとか。なお、「お歯黒」とは貴族の用語で、御所では「五倍子水(ふしみず)」、民間では「鉄漿付け(かねつけ・つけがね)」といいました。

「今風化粧鏡 眉かくし」歌川国貞 画
「今風化粧鏡 眉かくし」歌川国貞 画(1823年)出典:artelino-Japanese

金魚の簪を挿している娘が嫁にいって眉をそるとどんなふうになるか紙で隠して見ている絵。この頃、眉化粧をするのは年若い娘時代だけの貴重な化粧で、眉は太いのは卑しいものとされて、細いものが喜ばれたようです。ちなみに、当時の鏡は銅と錫の合金製で、表面を磨いた上に錫アマルガム(錫と水銀の合金)を塗っていました。塗りたてはガラス鏡と同じくらいよく見えていましたが、長く使うと曇って映りが悪くなるので、鏡研職人が定期的に家々を回って磨き直していました。

「名筆浮世絵鏡」歌川国貞 画
「名筆浮世絵鏡」歌川国貞 画(1820年代)出典:ボストン美術館

鏡台に肘をついて眉を描いている遊女(お椀の脇には江戸で一番人気だった白粉「美艶仙女香」がみえます)。江戸元禄期(1688-1704年)にはお歯黒と眉墨は女性の元服や婚礼との結び付きで通過儀礼の一つとなりました。女性たちは結婚が決まるとお歯黒をし、これを「半元服」といい、さらに子どもができると眉をそり落とし「本元服」といいました。民間ではお歯黒と眉のそり落としは貞潔のしるしだったようです。なお、遊女もお歯黒をしましたが眉はそらなかったとか。

眉をそり落として、墨で眉の形をかく作り眉の化粧は古く奈良時代には行われていたようです。上流階級の公家では男女とも、武家は女性だけが眉化粧を行いました。

まとめると、年若い娘・未婚…振袖、島田髷、眉あり、白歯。既婚・年増…留袖、丸髷、眉剃り、お歯黒。
江戸時代は、このように化粧でその人のだいたいの年齢や立場がわかりました。ただ国によっては嫁に行っても歯も染めず、眉も落とさないところもあったようです。

「今様美人拾二景 てごわそう」溪斎英泉 画
「今様美人拾二景 てごわそう」溪斎英泉 画(1804-29年)出典:紅ミュージアム

左手に紅猪口、右手に紅筆を持ち、真剣な面持ちで紅を差す遊女。下唇が緑色に彩色されているのは、文化・文政期(1804-29年)に流行した「笹色紅」という化粧法によるもの。この名は、玉虫色に光る品質の高い小町紅を下唇にのみ厚く塗り重ねると、笹の葉の色に近い発色をすることに由来します。ただし、紅花から抽出する小町紅はとても高価なもので、紅を沢山使う遊女から始まったと言われています。

「当世美人合 踊師匠」歌川国貞 画
「当世美人合 踊師匠」歌川国貞 画(1827年)出典:ボストン美術館

左手に紅猪口を持ち、薬指を使って目のふちに紅を施しています。江戸後期になると庶民も化粧を楽しむようになります。中でも鮮やかな色彩を放つ赤「紅」は、口紅や頬紅、目元や爪先など、ポイントカラーとして重宝されるようになります。もとは歌舞伎役者の舞台化粧として誕生した化粧法ですが、それをマネて女性たちの間でも流行しました。なお、この時代は目が大きいのは美しくないとされていました。

紅化粧は、あまり濃くつけるのは卑しいとされ、上品にほんのり薄くつけるのが基本でしたが、江戸時代後期「笹色紅」という濃い紅化粧が流行しました。
ちなみに、江戸より京阪のほうが化粧が濃く、洗髪回数も少なかったそうです。宮廷に近い分、伝統を重んじ保守的だったからと言われています。また、薬指は別名“紅点し指”ともいわれます。

明治時代になると、海外から日本の化粧が奇異な風習として見られるようになり、1870年(明治3年)太政官布告で華族にお歯黒と眉剃りが禁止されました。1873年(明治6年)には、昭憲皇太后が率先してお歯黒をやめられたのを機に、徐々に一般庶民の間でも廃れていったようです(大正時代にはほぼ消滅)。1877年(明治10年)頃からは、鉛の毒性が問題(鉛白粉で鉛中毒を発症する者も少なくなかった)となったのを契機に無鉛白粉が研究され、1904年(明治37年)には伊東胡蝶園から商品化されました。

白一辺倒だった白粉に色白粉が登場したのは明治の末頃、当時は肌色とはいわず、肉色などといっていました。
大正に入ると、白粉にかわって乳白化粧水(化粧液)がつくられ、口紅、頬紅、マニキュア、眉墨など、それまでとは違った洋風の化粧品が開発され、マスカラやアイシャドーを使った化粧もみられましたが、まだ都会の一部に限られていたようです。
ちなみに、アイシャドーは古代エジプトで発達しましたが、起源が毒虫や眼病から目を守るためでの実用的なものでした。また、アイシャドーやマニキュアは、かつては夜の化粧などと美容本には書かれ、一般の化粧品として市民権を得たのは高度経済成長期に入った昭和40年代以降だとか(カラーテレビの普及が大きかったようです)。

やがて、様々な化粧品も販売され、色とりどりの化粧が人々に浸透していき、個人の好みや肌合いに合わせて多様化していきました。

「美女と鏡」鰭崎英朋 画
「美女と鏡」鰭崎英朋 画(1910-20年)出典:Japanese Art Open Database

化粧を調べていくと、前回の「華麗なるアール・デコの化粧パッケージ」でも少し書きましたが、美しくなることは白い肌になることだったでしょうか。

美白は今でももてはやされていますが、平安時代には高貴な身分の表象としての意味をもつもので、加えて白粉化粧は“美人観”の表現にもなっていました。
昔から“色の白いは七難隠す(色が白ければ多少ブサイクでももてる)”と言われるように、日本人の美白志向は伝統的なものであり、どんな田舎育ちの日焼けした娘でも、白粉で壁を塗るように顔から首までを覆ってしまえば美しいと見なされました。芸者などが白粉を厚塗りして、まるで石膏像のような顔の白さを追求していたのは、あまりの日焼けヅラだと、昔の暗い明かりでは顔が見えなかったという理由もあるのだとか。
現在は、手を加えていることがわからないようなナチュラルな(つまり非常に無理な)美白が尊ばれています。

そういえば、真っ黒に日焼けした健康美が流行した時代もありましたが、“健康的”とか“明るい”とか評されることはあっても、“美しい”とはなかなか言われないのは、やはり心のどこかにこのことわざや美白志向が生きているせいではないかとも思われます。

そして化粧とは、仮装・仮相とも書き、古語では「けはひ」といい、常態とは異なる装いをすることで異常な雰囲気を醸し出すことでもありました。
起源は、神前の儀式や戦闘などの際に顔や身体に施した装飾に始まる(古代では白は死を意味し、赤は生を表し邪悪を排する)、と言われていますが、素顔と面を付けた顔との中間程度の顔を作った化粧で、神様や敵をだまし、たぶらかし、恐れさせるという意味では現代の化粧も機能的には同じかもしれません(笑。

出典:人はなぜ化粧をするのか
出典:化粧/コトバンク
出典:日本の化粧文化史/ポーラ文化研究所
出典:日本語を味わう辞典

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