「眼鏡・レンズ」は一番多く使われている医療器具かも
日本は近視大国と言われているようですね。2020年度学校保健統計調査(文部科学省)のデータによると、視力1.0未満の割合が小学校37.52%、中学校58.29%で、高校生においては67%を超えて過去最多を更新し悪化傾向だそうです。小学生時代・視力2.0だった自分からしたら、この驚愕な数字、かなり目が点になってしまいました。これは、生まれた時から液晶画面世代の弊害サンプルなのでしょうか。
なお、1950年の近視率は小学生で6%、高校生でも12%前後だったとか。
ということで、近視というと視力を補正する目的で装着する器具であり、また、自分が掛けると周りから“全然似合わない”と言われてしまうのでオシャレとして使えず、陰でこっそり老眼として使っている「眼鏡」について調べてみました。
一対のレンズを連結した構造の、眼前で使うタイプの眼鏡は、13世紀後半イタリアで発明されたようです(時期は1285年前後といわれ、発明者が誰なのかは諸説あり)。僧院を中心に老眼鏡として使用され、1400年代には知識階級・貴族を中心にヨーロッパに広まっていきました。ちなみに、レンズそのものはもっと歴史が古く、紀元前800~900年頃まで遡るとか。
広まった背景には印刷機の発明があったようです。1450年頃、機械的な活版印刷技術の発明により、急速な活字文化が進み眼鏡の需要が増加したと考えられています。これにより、眼鏡職人も多く誕生し店ができ、眼鏡作りも本格化していきました。この頃、老眼鏡の他に近視用のメガネも作られるようになったそうです。
日本への伝来は、室町時代(1551年)宣教師フランシスコ・ザビエルが、周防国(山口県)の守護大名・大内義隆に眼鏡を献上したのが最初といわれています。ただし、これは現存しておらず、現物で残っている物では、京都大徳寺大仙院に納められている室町幕府十二代将軍・足利義晴の眼鏡(象牙製の瓢箪型ケースに入れられている手持ちタイプの鼻眼鏡)が日本最古、という説が有力だそうです。
他にも、数年後に宣教師・フランシスコ・ガブラルが織田信長と対面した際、近視用の眼鏡を掛けていたので、信長はじめ一同がたいへん驚いたという記録が残っています。また徳川家康が使用したと伝わる眼鏡も久能山東照宮に納められています。なお、これらの眼鏡はみな、すべて手で持って見るタイプでした。
ヒモ付き眼鏡が発明されたのは16世紀後半から17世紀にかけてのヨーロッパといわれ、それが日本にも輸入され、やがてヒモ付き眼鏡(西洋ではスパニッシュイタリアン型と呼ばれるとか)が日本でも広まりました。ただ、この眼鏡を掛けても鼻が低い東洋人は眼鏡が顔にくっついてしまいます。そこで眼鏡がずり落ちないよう、鼻当てが着けられるようになりますが、これを考えたのは日本人といわれています。
そして、今まで輸入品に頼っていた眼鏡が日本で作られるようになったのは江戸時代初期のこと。専属の職人さんという方はもちろん居らず、水晶などの貴金属加工の飾師さんや細工師さんなどが兼業で行っていました。フレーム材質はべっ甲・水牛の角・馬の爪などですが、これらも初めは輸入していたそうです。
渋面をしているおじいさんが、ヒモを通し耳にひっかけるタイプの眼鏡で手紙を読んでいます。当時の日本製造のレンズは概ね水晶で作られており、ガラス製はオランダより輸入の青板ガラス(安価で窓用)を加工したものだったそうです。
「御目鏡色々」と書いてある引き出しの沢山ついた大きな箱を背負った眼鏡の行商が描かれています。なお、江戸時代は眼鏡を「目鏡」や「目鑑」という表記を使っていて、行商の眼鏡屋は修理や新しいのと交換もしてくれたのだとか。
17世紀末頃からは、眼鏡を売る店が京阪や江戸に現れ、眼鏡だけではなく「望遠鏡」や「顕微鏡」も作られるようになっていたようです。18世紀以降になると日本製の眼鏡も増えていきました。ちなみに、眼鏡ケースも江戸時代からすでにあり、根付(ねつけ)をつけ着物の帯に挟んで携帯していたとか。
江戸では、元禄年間(1688-1704年)に出現していたとされる眼鏡屋の店頭風景。看板に眼鏡の種類が書かれているようですが、近眼用や老眼用、女性用や子供用などの他に、ルーペやプリズムのようなものも描かれています。客が試しているのは望遠鏡なので、眼鏡に限らずレンズを使った商品全般を扱っていたようです。
右側に、幕末に登場した水牛フレームの「頭痛おさえ眼鏡」を掛けたおじいさんが描かれています。こめかみを押さえることで頭痛を改善させるらしいとのこと。
明治時代の女性たちを描いた半身像の揃物の一枚で、現代的な耳に掛けられるタイプの眼鏡をかけた女性の絵。巻きつるテンプルメガネと言われるものでしょうか。
明治時代に撮影されたと思われる写真。暑い時期でしょうか、川面に面した席で3人の女性が食事をしているようです。左の茶碗を持つおばさんが丸眼鏡をかけています。江戸時代では眼鏡を掛けた女性はあまり見られませんでしたが、明治時代になると眼鏡をかけた女性の写真も出現してきます。
レンズの本格的な国内生産が始まったのは、1873年(1873年)官命によりオーストリアのウィーン万国博覧会に参加した朝倉松五郎(現・アサクラメガネ創始者)が、レンズ製造技術を学んで帰国したことがきっかけでした。帰国後、国内初の機械によるメガネレンズの製造を始め、また活字文化の普及で需要に伴い、これがメガネ産業の隆盛につながっていきました。
そして現在では、日本の眼鏡はカメラ用と同じであるレンズの製造技術や軽くて丈夫なフレーム素材など、品質面でも世界のトップクラスとされています。
左上にヒモと鼻当て付き眼鏡が横向きに描かれ、中に「教訓親の目鑑」と文字が書かれています。娘がいる親に向けた教訓になっている揃物の一つ「理口者(りこうもの/利口者)」、親の眼鏡にかなわぬような市井の若い娘の行儀の悪い姿を描いているそうです。絵では若い娘が寝っ転がって軍記物「絵本太閤記」の本を読んでいますが(自分も寝る前の薄暗い中での読書で一気に視力は落ちましたね)、寺子屋が普及した当時の江戸でも、女性に学があるのは生意気だという風潮はあったようです。
眼鏡は、13世紀頃の昔から博学の象徴と捉えられ、現在でも教育や文化水準の高さに比例して眼鏡の装着率も高いようです。
ここから派生したかどうか不明ですが、余談で、
眼鏡というと、誰もが視力補正の装身具を真っ先に思い浮かべますが、「眼鏡違い」「眼鏡が狂う」のように、人や物の価値を見定めることの意味でも使われます。“人や物の価値を見定める”なんてことを偉そうに行えるのは権威のある人物や目上の人に決まっているので、「眼鏡に適う(かなう)」は一般の辞書に見られる解説“目上の人に認められる”という意味になるようです。時として、目下の者がこの言葉を使う場合は、目上の人をよいしょするために「眼鏡」に「御」をつけて“ヤツは社長のお眼鏡にかなって出世した”などと嫉妬心丸出しで言ったりしますが(汗。
いずれにせよ、問題ない正視でも40歳を過ぎたころから老眼鏡が必要になるようだし、近視は遺伝的要素や屋外活動時間の減少(屋内で過ごす時間が長い児童ほど近視になりやすいとか)も関係しているとされ、このままいくと日本人の半数以上が視力に問題を抱えて眼鏡やコンタクトレンズのお世話になるのは間違いなさそうです。
出典:東京メガネ・メガネの歴史
出典:メガネに残る江戸時代のルーツとは?
出典:メガネ誕生の歴史と技術
出典:眼鏡
出典:ルーペの豆知識
出典:メガネスーパー
出典:太陽の光を浴びると近視が防げる!
出典:日本語を味わう辞典
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