無限の波に平穏な暮らしへの想いをこめた「青海波」
扇形の文様が上下左右に繰り返して配置される「青海波(せいがいは)文様」。なお、Wi-Fiマークではありません、似てるけど(笑。
大海原の波を意匠化した文様の一つで、由来としては、雅楽の「青海波」の装束に使用されたためといわれています。
雅楽「青海波」は、青海波と千鳥の模様があしらわれた装束を身につけた2人がゆったりと舞う優美な舞。
舞は寄る波、引く波を表現しており、打ち物(打楽器)の奏法には千鳥懸(ちどりがけ)、男波(おなみ)、女波(めなみ)などという美しい名称が付けられています。装束は、すみずみまで波と千鳥が刺繍などで描かれ、舞具の太刀の鞘にまで波と千鳥が施されています。特に袍(ほう/朝服の上衣)には波を幾重にも重ねた青海波文様に、96羽もの千鳥がすべて異なる姿で刺繍され、舞楽装束のなかでもっとも美しい袍といわれています。
平安時代に書かれた「源氏物語」の中にで、若き光源氏と頭中将(とうのちゅうじょう)が帝の前で舞った舞曲としての姿が描かれています。
中央後ろ向きの女性の着物の裳(も/後腰に巻き付けて長く裾をひく背面だけの衣服)に破れ青海波文様が見られます。
涼しげな白地に紺の青海波に色とりどりの草花、そして朱色地に白抜きの鮫青海波の着物が描かれています。
原形と考えられる文様は、ササン朝ペルシア(イランの王朝・226~651年)の時代の銀杯や銀皿に描かれていて、これがシルクロードを経て中国に伝わり、中国から飛鳥時代の日本に伝わったとされています。
ただこれらの波文のほとんどが横向きに描かれているので、模様を想像した源は“波”ではなく、“鱗(うろこ)”だったのかもしれません。
なお、飛鳥時代の埴輪(はにわ)に青海波が描かれたものが発見されていますが、日本で“水”を意味する文様として描かれるようになるのは鎌倉時代の古瀬戸(鎌倉・室町時代に愛知県瀬戸地方を中心として焼かれた陶器)からと云われています。
青海波文様は、江戸時代の元禄期(1688‐1703年)に勘七という漆工が「青海波塗」という技法を創始し、この頃から広く浸透していったようです。これは、絞漆(しぼうるし)を櫛篦(くしべら)で掻き取り波文を表現する手法で、漆器や刀装具に塗装、世間では彼を青海勘七(せいかいかんしち)と呼び、工芸の世界で広くこの文様が使用されるきっかけとなりました。
またこの時期に、扇型の部分が菊の花になった「菊青海波」、松になった「松青海波」、菱形になった「菱青海波」、青海波の形を花でかたどった「花青海波」、紅葉が水面に散った流れを青海波であらわした「青海波紅葉」、青海波を敷き詰めずにところどころ破れ模様になっている「破れ青海波」、鮫小紋で青海波文様をかたちどった「鮫(さめ)青海波」など様々に変化させた文様が見られるようになり、色も波を連想させる青だけではなく様々な色を使用、室内装飾としては襖紙などに古くから用いらました。
青海波模様の小袖を着た女性が赤子をあやしています。
黒地着物に青海波文様と千鳥文様が描かれています。
青海波は、穏やかな波がどこまでも続いている無限に広がる波の文様に、未来永劫へと続く幸せへの願いと人々の平安な暮らしへの願いが込められた縁起の良い吉祥柄です。
ちなみに、青海波の上に描かれている千鳥(波千鳥)は波間を飛び交い戯れる鳥の姿を表しています。波を世間に例えて、「世間の荒波を共に乗り越えていく」という意味があることから、夫婦円満、家内安全を意味する縁起の良い文様とされています。また、千鳥には「千取り」との語呂合わせで、勝運祈願・目標達成などの意味が込められています。
家紋としては、波紋に属します。波は水が動いてできたもので、古代の人は水神(海神)がおこしていると考えていました。なので水神を奉った神社で神紋として用いられ、また戦国武将も闘いの動きを寄せては返す波の動きになぞらえて旗印や武具に付けるなど、武人に好まれた紋でした。「丸に青海波」「菱に覗き青海波」などあります。
波の連なりに無限の広がりを見る意匠化した単純な連続模様に、きっと凪いだ海のような人生を送りたいと願ったことでしょう。この国には自然と寄り添う心と模様が、時代をいくつも越えて今に伝わっています。優美な舞と美しい自然の景色を重ね合せた青海波、手元に一つ置いていると何か良い気分でいられそうです。
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