神頼みしたくなる時に流行った「七福神と宝船」
いつからか棚に飾ってある七福神と宝船、またじいちゃんがどこからか買ってきたものだろうけど、昭和の時代から鎮座しているように思う。
宝を積んでいるから、これは入船の様子でしょうか。縁起物なのは知っていますが、いつからこの形になったのかなど調べてみました。
宝船(たからぶね・ほうせん)とは、七福神、米俵や珊瑚・金銀・宝石など様々な宝物が積んだ帆船の絵や置物。新年をあらわす季語でもあります。
その帆には、色々な縁起の良い一文字が描かれ、また宝船の図には、次のような五七五七七の和歌に似せた回文歌(上から読んでも下から読んでも同じになる文章)などが書かれることがあります。
「なかきよの、とをのねふりの、みなめざめ、なみのりふねの、をとのよきかな(長き夜の遠の眠りの皆目覚め浪乗り船の音の良きかな)」
これは、聖徳太子の和歌と伝えられ、七福神の船が波の上をやって来て幸福を授けるありさまを詠んだものとされます。
江戸時代、正月2日の夜に見る夢を初夢とする習俗が広がり、“初夢を見る日には枕の下に七福神の宝船の絵を敷き、上記の歌を3度読んで寝ると吉夢を見られる”という俗説が生まれました。
初夢とは、新しい年を迎えて初めてみる夢。
その吉凶で年間の運勢を判断する「夢占(ゆめうら)」の習俗は古く、法隆寺の夢殿に聖徳太子が夢占をするために入ったという伝承があるほか、仏のお告げが夢のなかに現れるという夢告(むこく)の観念が平安時代から存在しています。
ともかく初夢に特別の関心が寄せられると、こうした「吉夢」をみようという“まじない”が生じ、悪夢を食うという貘(ばく/想像上の動物で、これによって邪気を払う)という字を書いた紙を枕の下に入れて寝る習俗が宮中や公家を中心に広まり、室町時代には節分の夜か除夜の際に船の絵が人々に分け与えられ、床の下に敷いて寝た翌朝に悪夢を見たものは集めて流すか埋めるかして祓っていたようです。
なので、船の元はもっと素朴なもので悪夢を乗せて流すという「夢違え(たがえ)」または「夢祓え」が原形で、災厄を払うのが本来の意味でした。現存最古とされる絵柄は船に稲穂のみを描いたものだとか。
このように、以前は節分の夜(立春の朝)の夢を初夢としていましたが、暦制の関係から除夜や江戸中期から元日の夜に移り、やがて「事始め」の正月2日の夜の夢になったようです(寝ずに朝を迎えるのが大晦日の正しい過ごし方だからという説が有力、起きているから夢は見ないわけでして2日にした様子)。
そして、江戸時代、これに目を付けた商売人が浮世絵師に七福神や宝物を乗せてにぎにぎしく飾り立てた船の絵を描かせ、元日にお宝売と称して「お宝、お宝」と叫びながら市中を売り歩いたとか。そんな宝船売りも、大晦日のくそ忙しい時にのんきに宝船の絵など買い求める人も少ないだろうから、熱心に“初夢2日の朝説”を支持していたに違いない…と(笑。
なお、「一富士、二鷹(たか)、三茄子(なすび)、付け加えれば→四葬式、五火事」を縁起の良い夢とする俗信は江戸時代に生まれました。
七福神は、江戸時代、徳川家康に求められた天海僧正が苦し紛れに案出した福の神セットだという説がありますが(この時の七福神図は狩野探幽が描いた)、すでに室町初期にはできあがっていて、1420年に七福神の風流行列(仮装行列)が京都で行われたりしていて、瑞祥(ずいしょう)の象徴として絵画・彫刻の題材とされ、京都の禅寺では、室町時代後半から宝船に乗った七福神の絵が描かれていたようです。
七福神とは、七人の福の神という意味で、福を呼ぶという評判の高い神様をインドや中国などから寄せ集めて編成したチームをいいます。
「宝船」という帆船に乗っている姿で描かれる場合が多いので、ヨット競技かなにかに出場するらしく、メンバーは、恵比寿、大黒天、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁財天、布袋(ほてい)、福禄寿(ふくろくじゅ)、寿老人(じゅろうじん)ですが、役割分担は明確でなく、キャラがかぶっている神様もあり、いかにも寄せ集めの急造チームの感は否めません。ご利益のある神様を集めた船だけに好成績が期待されたようですが、船に乗っている姿はとても競技に勝とうという意欲は見られず、また余計な宝物などを積み込んでいるため船体が重すぎて、結果は見込めず監督責任が問われるところ…(失礼。
冗談はさておき、宝船の七福神の席順があるとか。七福神の中で大黒天(豊作の神様)、恵比寿(商売繁盛の神様・日本由来の神様)の人気が高く、弁財天(学問財福の神様)がそれに次ぎ、そのため前列中央に弁財天を配して、その左右に大黒天、恵比寿を座らせるものが多く、後列に昆沙門天(勝負事の神様)、布袋(開運良縁子宝の神様)、福禄寿(長寿の神様)、寿老人(長寿幸福の神様)と並べられます。七福神の中の紅一点、弁財天を最も目立つところに描くのは絵が華やかになると考えられたからだとか。
また、七福神の宝船では、多くの積荷、財宝が入って来るように(入船)、舳先(へさき/船首)を左に向けることがおめでたいとされています。
こうして、江戸時代の前期になると七福神が金銀・米俵を満載した船に乗る絵柄によって吉夢を祈願する習俗が流行。宝船と七福神の組み合わせは定型となり、海のかなたへ災厄を流し去ると同時に、そこから福徳がもたらされると云われるようになりました。
ちなみに、古代の日本人は、“幸福が海の果てから来る”という考えを持っていました。「古事記」などには、常世の国(とこよのくに)という古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界で、神々が住む世界が出てきます。常世の国から来た神様が人びとに有益な知識を授けてくれるとも、亡くなった人間は霊魂となって常世の国に行って永遠に生きるともいわれました。なので、七福神が宝船で海の果ての神々の世界から来るとする発想は、ここから来たのかもしれません。
余談ですが、睡眠を観察すると、夢を見ている時の浅い眠りをレム睡眠といいますが、周期はおよそ1時間半なので8時間眠るとすると一晩に4回~5回くらいは見ていることになります。夢をどうせ見るのなら、目覚めた時に幸せな余韻が残るようなストーリーを見たいと思うのは当然ですが、5万例の夢を分析したアメリカの心理学者ホールによると、人は5回に4回はネガティブな、イヤな夢を見ることがわかったそうです。つまり、幸せな夢は5回に1回しか見ることができない、らしい。とはいうものの、最後に見た覚えている夢が幸せな夢で、あとは忘却しちゃっていればよいのですけどね。
縁起物の宝船と七福神、しかしながら、これらの福の神は、人びとが将来に不安を感じて神頼みしたくなる時に流行したそうです。
室町時代、朝廷の指導力も将軍を務める足利家の力も低下し、数力国を治める有力な守護大名が各地で勢力を張って競い合っている時代、こういった背景の中で京都の商人たちが、しきりに福の神を祭るようになったという。
そしてもう一つ、この時代に作られたと云われている狂言の演目「福の神」、福の神を演じる役者は笑いながら登場します。人びとが笑えなくなった時、つまり安心して生活できなくなった時に、福の神の笑いが幸福を招くと考えたのかもしれません。(確かに、人は笑顔に吸い寄せられるといいますし、笑っている家には福も来やすいと感じます)
福の神は、元手がないからここに来たと社に年越しのお参りに来た2人の男にさとします「元手とは金銀や米などではなく、心持ちのことだ」さらに「早起き、慈悲、人付き合いを大切にすること、夫婦仲よくすること」と。
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