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「托鉢」、お布施は渡す側の気持ちで決めること

「托鉢」、お布施は渡す側の気持ちで決めること

昭和の頃までは托鉢(たくはつ)をする僧侶と出会うことはあったけど、現在はそのような地域に行かない限り出会う機会は稀なことかもしれません。20代なんて知らない人が多いかも。

そもそもなんで「托鉢」に思いあたったか、と申しますと、昭和の画像を海外のサイトを含め探している時、托鉢をする僧侶がままあったため、などもありますが、コロナ禍でパニックになり行動制限(都民や近県の人は地方に来ないでね、などあった時期)がある中の一昨年の9月、葬儀のため1泊2日で急遽鹿児島へ。その式の最中に隣に座っていたおばあちゃんの妹さんが“あら、昨年亡くなられた○○さんと戒名が同じ”とポロっと言ったのですね。使用する文字に決まりがあるとはいえ、こんな小さな町で同じだなんて…。
そんなこんなで死は当然訪れるし、何となくその時は仏式になるのか、でも信者でもないのに何故?などと考えてたら仏教に興味をもちまして、前置きが長くなりましたが今回は「托鉢」について調べてみることにしました。

古い民家前に立つ托鉢僧
古い民家前に立つ托鉢僧。出典:Flickr

托鉢とはサンスクリットのpindapātika(パインダパーティカ)の訳で、仏教の僧侶が修行のため鉢を持ち、金銭や食料を乞うて歩くこと。行乞(ぎょうこつ)、乞食(こつじき)とも言うようです。

ちなみに、現代では差別用語と見なされている“こじき(乞食)”は、この仏教の出家修行者からきています。出家僧が修行のために信者の家を回って施しを受け生活していた所からその名があるようですが、施す側から見れば、本当に修行者だろうが、修行者を騙った詐欺師であろうが、修行者をかたらず堂々とものを貰いにやってくる人であろうが大差はないので、ものを貰いにやってくる全ての人をひっくるめて乞食と言うようになったのだと思われます。
つまり主に路上で、人々のチャリティ精神を頼りに生活している人をいう(浮浪者やホームレスをまとめて昔は言っていた)。現代日本では、路上などで無償の施しを要求する行為は犯罪に当たるので、乞食業への転職をお考えの人は、金銭の引き替えとなるサービス、即ち楽器のようなものを演奏するとか剣のようなものを飲み込むとかいう一芸を身につけることをお勧めします。

元々は古代インド(前1200年頃~前500年頃)の婆羅門教(バラモン教/ヒンドゥー教の前身)などで鉢をもって在家に食を乞うことが行われていたものが、仏教もその風習をとり入れ、出家した僧が厳密に定められた様々な規律に従って生活の手段とした行乞を行うようになったとされます。

日本へも托鉢は仏教の伝来と共に伝わりました。
奈良時代には河川の堤防やため池・井戸などの社会インフラの整備や大仏建立のための勧進(かんじん/功徳になると人々に勧めて寄付を募ること)というチャリティとして、また広報的な意味合いでも托鉢は行われるようになり、平安時代末期になると、聖(ひじり/寺院に定住せず深山の草庵に住んだり遍歴しながら修行する僧)と呼ばれる諸国を回遊する仏教僧による浄土教の布教活動に繋がっていきました。また、托鉢の語はこの頃使われるようになったようです。

なお、維持を目的とした托鉢は、寺院が寄進された荘園(権力者の私有地)等を運営し、その小作料(寺院に支払う土地の借り賃)等で寺院を維持する事が可能となったため、行われなくなったとされます。

日本では、禅宗(ぜんしゅう/開祖は達磨、坐禅を根本とする仏教の一宗派[曹洞宗・臨済宗など])や普化宗(ふけしゅう/禅宗の一派で唐代の普化和尚を始祖、虚無宗ともいう)などで特に托鉢が行われ、軒鉢(けんぱつ)と称して家ごとに布施・喜捨(きしゃ/惜しむ心なく喜んで財物を寄付すること、また財物に対する執着や物欲から離脱させる意味もあるとか)を乞うていく形式と、街角や寺院の前に立つ(辻立ち)や連鉢(れんぱつ)と称して一軒一軒立ちどまることなく道を歩く様式があり、修行の一つともみなされています。

1904年(明治37年)頃の虚無僧
1904年(明治37年)頃の虚無僧。出典:Flickr

この普化宗という仏教のマイナーな宗派の修行僧が虚無僧(こむそう)と呼ばれ、鎌倉時代(1254年頃)に日本に伝わりました。
虚無僧とは、漢字の字面からは“ニヒルな僧侶”という意味が伝わってきますが、これは当て字で元の意味は「こもそう(薦僧・菰僧)」で、雨露をしのぐために菰(こも)を持ち歩き“ぼろ”を身にまとって物乞(ものご)いしたので(つまり乞食ファッションの僧侶)、そこから「暮露暮露(ぼろぼろ)」「梵論字(ぼろんじ)」(いずれも破れた汚い衣装を着ている路上生活者のイメージ)など身も蓋もない呼ばれ方をされることもありました。

僧侶でありながら剃髪せず、刀を持ち、天蓋(てんがい)と称する独特の深編み笠をかぶって、尺八を吹きながら諸国を廻るという出家しているのかしていないのかわからない中途半端なスタイルで知られ、悪事を働いたか何かで仕方なく出家しているような武士の間でカルト的な人気があったらしく(江戸時代に罪を犯した武士は普化宗の僧となれば刑をまぬがれ保護されたとか)、時代劇や漫画などでは、密偵や忍者や逃亡者の変装ファッション(ただし、すぐ見破られる)として、山伏、薬売りや針売りの行商人などと並んで高い人気を誇っています。
蛇足で、以前、海外の日本旅行パンフレット(昭和の頃と思われます)で、尺八をくわえた深編み笠の虚無僧が駅のホームにずらりと並んで新幹線を待っているといった悪夢のような光景が紹介されていたのを見ましたが、日本の実情がよく理解されるようになった昨今では、そんなシュールでおもしろい日本案内はできないかも。

「鏡で虚無僧の顔を見る遊女と禿」鈴木春信 画
「鏡で虚無僧の顔を見る遊女と禿」鈴木春信 画(1766年)出典:ボストン美術館
「伊達虚無僧姿の若い男女」鈴木春信 画
「伊達虚無僧姿の若い男女」鈴木春信 画(1770年)出典:ボストン美術館

1700年代、歌舞伎芝居で虚無僧に扮した場面が演じられると、庶民の間でファッションとして取り入れられます。冨家の道楽者や武家の放蕩息子などが、伊達な美服に身を包んで虚無僧コスプレを楽しんだようです。このようなスタイルや、派手な姿で尺八を得意とする門付け(かどづけ)芸人(家々の門を訪れて演じる芸能)になった者は“伊達虚無僧”と呼ばれました。
上記の錦絵で、“天蓋は誰の前でもとらなくともよい”という「慶長掟書」があったから、なおさら鏡で顔を見たくなりますよね。

しかし、浪人や無頼の徒が身を隠す手段を利用し乱暴をはたらくなどの弊害が続出したため、普化宗は1871年(明治4年)政府により強制廃宗されました(明治政府は西洋にならって物乞いの托鉢禁令も出したが、1881年に乞食行為と異なるとして虚無僧以外許される)。1888年(明治21年)に京都に明暗教会が設立されて虚無僧行脚が復活しましたが、虚無僧は宗教から離れ、尺八修業の方便か物乞いの手段かになって影を潜めたようです。

そして現在の托鉢は、僧でない者が僧侶を装っての物乞いを防止するため(一部、托鉢僧になりすました怪しい人物もいるらしい)、宗派の発行する鑑札(托鉢許可証/法的な拘束力や強制力は伴わない)の所持を義務づけて、托鉢の時間・手法について規則を定め、集団で自派の檀家の家々を訪問する形態や、個人で寺院の門前や往来の激しい交差点など公道で直立して移動せずに喜捨を乞う托鉢を行っているそうです。

昭和初期の托鉢風景
昭和初期の托鉢風景。出典:Flickr

仏教の開祖である釈迦は約2500年前、人の欲望は、衣・食・住から起こると言いました。この三つの執着から洗い・浄め・掃き捨て、貪欲を打ち消すための修行の一つに托鉢があるそうです。そして、施しをする側、つまりお布施(お金等)を出す側にも、功徳を積むという修行が生じる行為なのだそうです。
このお布施には、僧侶や貧者に食事や金品を渡す「財施(ざいせ)」、お経を読んで教えを伝える「法施(ほうせ・ほっせ)」、恐怖心を取り除く「無畏施(むいせ)」と3種の施し方「三施(さんせ)」があり、葬式では、僧侶が「法施」と「無畏施」を、遺族が「財施」を昔から施しあっていたとされます。
なので、お布施はあくまで感謝の気持ちとして渡すもので決まった金額はなく、お寺や僧侶から“いくら”と請求されるようなこともなく、渡す側の気持ちで決めることが正解のようです。ただし実際は“これぐらい”という相場があり、こちらから決められないので矛盾し羊頭狗肉ものですよね。
とはいえ、日本人の約7~8割は行うという仏式の葬儀(2021年度は戒名なし樹木葬が46.5%で1位に/2021年お墓の消費者全国実態調査より)は残された人たちへの悲しみを癒すための儀式だったのでしょう。

出典:托鉢をする僧に出会って戸惑ったことのある方へ、ない方へ
出典:托鉢
出典:虚無僧
出典:普化宗
出典:托鉢/コトバンク
出典:日本語を味わう辞典

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