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「鬼門」は迷信のひとつ、単なるこけおどし⁈

「鬼門」は迷信のひとつ、単なるこけおどし⁈

じいちゃんが大工さんだったせいか、“便所や台所や玄関は、あの方角に造らないんだ”と聞いて知っていましたが、理由はわかりませんでした。
ということで、昔から気になっていた、あの方角「鬼門」について今更ながら調べてみることにしました。

鬼門封じ
「鬼門封じ」京都の柊家旅館、鬼門除けといわれている北東角の欠込(かけこみ)。出典:画像

敷地や建物の北東の隅に角を作らないように「缺(か)け(凹ませること)」を設けるもので、角が無くなるので鬼門自体が消滅する、鬼が出てくる門の存在自体を消すことができると考えたようです。

昔から“三所に三備を設けず”という言い伝えがあります。この三所とは鬼門・裏鬼門そして建物の中心、三備は便所・台所・玄関を指します。

鬼門とは、北東の十二支の干支を使った艮(うしとら・丑寅)の方角のことで、便所や出入口を設けることを忌む風習が残っています。また、鬼門の反対の方向である南西の坤(ひつじさる・未申)は裏鬼門といわれ、台所や浴室を設けることが忌まれています。

この方角は鬼が出入りし集まる所といい、この事を言い始めたのは陰陽道を専門とする陰陽師(おんみょうじ)のようです。

なお、陰陽道の発祥は仏教と道教が伝来した5~6世紀の飛鳥時代とされます。
陰陽(いんよう)とは、“かげ”と“ひなた”というほどの意味ですが、普通は宇宙のあらゆるものが互いに必要不可分な陰と陽の側面を持つという、古代思想の重要概念をいいます。
例えば、太陽は陽で月は陰、+は陽で−は陰、体を温める食べ物は陽で体を冷やす食べ物は陰、といった具合で、幼稚園児にも宇宙を組み立てられそうなわかりやすさとお手軽さが売りです。
しかし陰陽道の専門家は、そんな単純な学説では権力者を言いくるめるのに不十分と気づいたのか、その後、陰と陽の組み合わせを複雑にしたり、分類の下位カテゴリーをもっと増やしたりして、陰陽五行説・易経・風水・天文学・暦学などに発展分岐し、収拾がつかなくなっていった、ようす(汗。
さらに神道・仏教・修験道・禁呪道に影響を受けたことで日本独自の思想・呪術体系として発展しますが、1872年(明治5年)公的な制度としての陰陽道は廃止され、現在は神道に取り込まれた形で残っているようです。
また陰陽師(モドキ?)は“あなたの運勢をズバリ占うスピリチュアリスト”などと称して悩める人を救ったり、怪しげなカレンダーを作って貧乏人に夢を売ったりして、しぶとく生き残っているもよう。

この陰陽道と日本の神仏習合思想と深く関わりをもつことで、日本独自の家相(家の位置・間取り・方向などのあり方)の発展ととも鬼門の観念も発展してきたようです。鬼門の方向を忌む信仰は、9世紀あたりから見られ、特に盛んになったのは平安時代後期からでした。
鎌倉時代前期に著された「陰陽道旧記抄」に、竈(かまど)・門・井戸・厠(かわや/便所)など、病気に直結する場所を神格化させ、諸々の宅神(やかつかみ/家を守護する神)から祟りをうけぬよう祭祀を行っていた歴史があり、鬼門と名の付く北東方位を他の方位方角より恐れる方位になったようです。

桓武(かんむ)天皇が王城を平安京に移したとき、鬼門に比叡山の延暦寺を鬼門封じの役割のために建立した、とありますが、それは後になってからの説のようで、はっきりわかっているのは「吾妻鏡(あづまかがみ/鎌倉時代に成立した歴史書)」1235年・正月の条に、五大堂建立の地が幕府の鬼門にあたっているとの記載です。江戸城に対しても同様の理由から東叡山寛永寺(東京都台東区上野)を建立したとされます。

般若の面
「般若の面」能面の般若は、女性の内なる怨念や情念、嫉妬、怒り、悲しみを込めた女性の怨霊を表現する面

鬼門から出てくる鬼の正体とは、道教では「魂魄(コンパク)」の「魄(ハク)」の部分のことで、肉体を支配する感情のことを言い、喜び・怒り・哀しみ・懼れ(おそれ)・愛・惡(わろ)しみ・欲望の7つをまとめた七魄があり、人の「魂」=良心が抜けて、「魄」=制御不能な感情だけがさまよっているものとされます。

日本の鬼はというと、もともと「おぬ・おん」と呼ばれ、隠されて見えない物・人目に触れず裏側にあるものという「隠」と言う字が当てられます。そこから派生して、人知を超えた力を有するもの、神へと進化していきますが、日本の神という概念は、和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)という二面性を持っています。
和御魂とは雨や日光の恵み・加護のことで、荒御魂とは天変地異や疫病といった祟り(たたり)のこと、つまり原始の神とは大自然の摂理そのもののことで、この摂理が持つ二面性が、のちの怨霊信仰へと繋がっていきます。
菅原道真も平将門も大いに祟りますが、祟りが大きければ大きいほど、その二面性がもたらす恩恵、いわゆる加護も大きくなるという理屈で、人は天神様(祭神・菅原道真)に参り、神田明神(祭神・平将門)の祭りを盛大に祝うとされます。
この怨霊が神へと変化する過程でこぼれ落ちたものが鬼で、変化の過程で道教の巡金神(めぐりこんじん/忌避しなければならないと畏(おそ)れられている方位の神)信仰や仏教の浄土信仰と混ざり合っていきます。
なので、鬼の姿は元来が外国人であるせいか好きなようにいじられたようす。裸体に虎皮のパンツという恥ずかしい格好をさせられたあげく、地獄では閻魔王の命令のもと重労働を課せられ、寝るところを求めて家に入れば豆を投げつけられて追い払われ、孤島で平穏に暮らそうとすれば中途半端な動物を家来として引き連れた青二才(子ども)に退治されるという、さんざんな被害にあっています(汗。
ちなみに、昔話において鬼を退治する多くの者は童子(小さい者)ですが、東洋思想において子どもは神に守られていて、悪霊を祓うと信じられていたからだとか。

そのことからも鬼とは、得体の知れない恐怖の対象の悪霊・怨霊と認識され、災害疫病などすべての災厄の元凶であるとして、日本では恐れられたようです。「鬼」は外!でも「鬼」も内⁈

古い街並みの中には、いたるところで様々な種類の「鬼門除け」が見ることができます。

枡形の結界
石で四角に区切った枡形の中に、細かい白い玉砂利を敷き詰めて一種の神域とした枡形の結界。
屋敷神を祀っている祠
家の敷地の鬼門に屋敷神を祀っている祠。その霊験を魔除けに使うという方式。

こうして、もとは古代の陰陽五行(いんようごぎょう)などの古書に出てくる鬼門は方角禁忌までは含んでいなかったものが、鬼を恐れるあまり日本独特にさまざまな俗信が生まれました。
鬼門の俗信は「鬼門除け」という習俗をも生み、鬼瓦を屋根につけたり、あるいは村の鬼門除けに鬼門堂を建てたり、稲荷(いなり)などを屋敷神として祀ったり、梅や桃を植えたりもしたようです。
また、風水の考え方を取り入れた家相はその居住者の吉凶を左右すると信じられ、とくに家の北東隅は鬼門といって悪い方角とされ、台所・便所・出入口・窓などを作るのを忌んだり(ことに大工は今でもこの方角への建築を忌みます)、欠込(かけこみ)を設けて災難除けとしました。

ちなみに、風水とは、文字通りには「風」と「水」という意味ですが、通常は中国で確立された不動産選びや建築土木の設計アドバイス、およびそのマニュアルのことをいう。現在でも建築設計にあたって風水士がコンサルタントとして活躍していますが、建築の設計士は地震に強い家やモダンデザインの家は設計できても、金の儲かる家や医者いらずの家などは造れないから、“開運の家を造る”と主張する風水士の出る幕がそこにあるようです。
日本でも風水を取りいれた家相学などありますが、住宅の設計にあたって風水士を起用するほどムダ金のある人はあまりいないので、マスメディアで風水の専門家が言っていたことを聞きかじってインテリアの模様替えをしたりする“ちょこっと風水”“なんちゃって風水”が主流です。

方位磁石

ということで、北東の方角をいう鬼門(鬼が出入りする門、つまり鬼のセールスマンや御用聞きがうるさくやってくる通用門とも(笑)は陰陽道の高度な学説にもとづき、日本では縁起の悪い方角とされます。そこから、不運や災難がつづく場所や状況を“この地区は私にとって鬼門だ!”などと言い表すこともあります。
住宅設計においては鬼門は風水に取りいれられて、その方角に門、蔵、水回りの部屋(台所・便所・風呂)などを置くのをタブーとしています。陰陽道が盛んだったころの鬼門は、建物の設計ばかりか都市計画においても意識され、鬼の出入りを防ぐ「鬼門除け」として、その方角に霊験あらたかな社寺を建てるのを常としていました。
風水のさかんな国では「鬼門」という考え方は無いといわれるから、陰陽師や風水士という人々がいかに地域住民のニーズを取り入れ、臨機応変に学説を作り替えているかがうかがえ、魅力のない商品でも地域密着型で営業すればどうにか生き残っていけるというよい手本を示しています。
なお、明治維新・近代化によって鬼門も迷信のひとつ・単なるこけおどし、とされることになったようですが、民衆レベルでの信仰は続いていて現在に至ります。

なんとなく色々な意味で「鬼門」は“触らぬ神に祟りなし”なのかもしれません。

出典:鬼門
出典:「鬼門」との正しい付き合い方
出典:家相
出典:風水説
出典:日本語を味わう辞典

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