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最も間の悪い行事「七夕」

最も間の悪い行事「七夕」

七夕(たなばた)とは、旧暦7月7日の夜に天の川(銀河系)の両岸にある牽牛星(ひこぼし、わし座のα星アルタイル)と織女星(おりひめ、こと座のα星ベガ)が年に一度会う(逢瀬を重ねる)という伝説に基づいて星を祀る行事、五節供の一つ「七夕(しちせき)の節供」で棚機とも書きます。
ちなみに、両星の間は16光年離れています(近いのか遠いのか…)。また、織姫がポニーテール(?見えなくもないが)だったという理由から7月7日を「ポニーテールの日」としているとか。

「月百姿 銀河月」月岡芳年 画
「月百姿 銀河月」月岡芳年 画(1886年)出典:東京都立図書館

伝説では、天帝の娘である織姫は機織りの上手な働き者の女性、彦星もまた一所懸命に働く牛飼いの青年で二人は天の川を挟んで住んでいました。やがて二人は結婚し…、あまり中がよすぎて、機織る事もせず、夜昼吸付いてばかり給ひしゆえに、天帝大いに怒り給ひ、織女を呼び返し、この後は一年に一度、七月七日の夜、天の川を渡りて会いに行くべし。そのほかは決してならぬと、厳しく申付け給ひしゆえ、詮方なく年に一度を待ちわびて契り給ふとなり。(途中から『五節供稚童講釈』より。江戸時代、1年に一度の逢瀬を子どもたちにストレートにおおらかに教えていたようです。)
なお、万が一天の川が雨で氾濫し渡れなくなると、カササギ(鵲)たちがやって来て橋を掛けてくれるとも云われています。

この伝説は古く、前9世紀から前7世紀にかけての中国最古の詩集『詩経』にあり、日本でも奈良時代の『万葉集』に見られるそうです。
中国ではこの日、女性は手芸の神様とされる天上で機を織る織女(しゅくじょ)に裁縫や機織のほか音楽・書道など技芸の上達を祈る乞巧奠(きこうでん)という行事もおこなわれていました。

奈良時代には、この伝説と乞巧奠が、日本に伝わったとされていますが、その際、もともと日本でおこなわれていた水の神様を祀る神事と合体して始まったものといわれます。
古代日本の宮中文化において、衣服は身分を表す役割を果たしていたため、衣服に携わる仕事、とりわけ織物を織る仕事が重要視されていました。織物は女性の仕事とされており、「棚機つ女(たなばたつめ)」と呼ばれる機織をする女性が、水辺にしつらえた小屋にこもり神を迎えて祭り、人々のけがれを神に託して水に流して祓う神女でした。

なので、機織をする女性という共通点があったことから、諸説ありますが“七夕”と書いて“たなばた”と読むようになったと云われています。

「儀式風俗図絵 七夕 乞巧奠」巌 如春 画
「儀式風俗図絵 七夕 乞巧奠」巌 如春 画(19世紀)出典:金沢大学付属図書館

日本に七夕の節供が伝わった当初は、貴族の宮廷行事として乞巧奠にならった行事が行われました。庭に「星の座」と呼ばれる祭壇が設けられ、五色(青[緑]・赤・黄・白・黒[のち紫]、五行説にちなんだもの)の糸や金銀の針や梶(かじ)の葉、琴、琵琶などを飾り、織女にちなんで技芸の上達を星に祈りました。なお、この五色の糸や金銀の針や梶の葉が江戸時代に「五色の短冊」や「七夕飾り」へと変化します。

また、貴族の教養として、特にきれいな文字を書くことが重視されていたため、梶の葉に和歌をしたため、文字が上手に書けるように願ったともいいます。平安時代になると機織りに限らず、裁縫や書道、詩歌管弦の上達を祈って宮中の男女が集って歌会を開き宴を催したようです。
室町時代には、里芋の葉にたまった朝露を硯に入れてすった墨で書くと、文字が上手になるという風習も生まれました。

「若紫年中行事の内 文月」歌川国芳 画
「若紫年中行事の内 文月(一部)」歌川国芳 画(1857年)出典:東京都立図書館

源氏物語に題材を求めている絵、城内での七夕祭の準備でしょうか、優雅で楽しげな様子が描かれています。

江戸時代には初期に「五節句」という五つの祝日を公式設定し、最初は宮廷や貴族や武家たちの行事でしたが、民間にも広がり盛んに行われるようになります。
庶民の子たちも寺子屋で“読み・書き・そろばん”を教わるようになり、字がうまいということは、男の子にとっては出世につながり、女の子にとっては器量の良さにつながるため、とても重要視されていたそうです。そうしたなか、庶民の間でも子どもたちの学問や技芸の上達を願い、短冊に願い事を記すようになりました。

「子宝五節遊 七夕」鳥居清長 画
「子宝五節遊 七夕」鳥居清長 画(1801年)出典:ボストン美術館

七夕祭の前夜または当日朝、子供たちが習字や学問の上達を祈って硯・筆・机などを洗う「硯洗い」の行事が行われていました。

「子宝五節遊 七夕」鳥居清長 画
「子宝五節遊 七夕」鳥居清長 画(1794-95年)出典:ボストン美術館

寺子屋では、里芋の葉の露を硯に入れて墨をすり、和歌や願い事をしたためた五色の短冊を笹へ掛け、書の上達を願いました。

「稚遊五節句之内 七夕」歌川国芳 画
「稚遊五節句之内 七夕」歌川国芳 画(1840年)出典:ボストン美術館

短冊の他、紙を切って作るひょうたんやくくり猿もつけ、竹骨に紙を貼った硯・筆・西瓜の切口・つづみ太鼓・算盤・大福帳などの作り物は売っていたようです。

「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」歌川広重 画
「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭」歌川広重 画(1857年)出典:ボストン美術館

五節句の中では「七夕」が最も盛大な行事でした。
飾りに使う笹竹は背の高い方がよいとされており、孟宗竹(もうそうちく)の先端に青笹の枝葉を縛り付け、当時の庶民の家には庭がなかったため、こぞって家々の屋根の上に立てられたとのこと。家々の屋根の上には、七夕の詩歌を書いた短冊、色紙で切った網や吹き流しなどをつけた青竹が立ち、空を覆うばかりであったといいます。

ちなみに、七夕の行事はアジア諸国で広く行われていますが、笹の葉に短冊を飾るのは日本だけなんだとか。
そして、笹や竹が使われるようになったのは、笹や竹は成長するスピードが速く縁起がよいと思われ、古来より生命力あふれる神聖なものとして神の宿る依代(よりしろ)と考えられていたから願いを託すものとして使われるようになったといわれています。

こうして江戸の街を華やかに彩った七夕飾りは、七夕の夜にはすべて取り去られて、願いをかなえるために川に流されたそうです。川に流すという儀式には、水の神様への信仰からと考えられます。この7日に川や海に流すのを七夕送りといい、青森の“ねぶた(佞武多)”は七夕祭りが原型だとか。
ただ、川にものを流すことや背の高い竹を処分するゴミ問題が出てきて、この風習は薄れていきました。そして1873年(明治6年)に新暦採用を境にして五節供が祝日でなくなると、七夕の行事は一度廃れてしまいます。

「江戸砂子年中行事 七夕之図」豊原周延 画
「江戸砂子年中行事 七夕之図」豊原周延 画(1885年)江戸時代の武家の行事として描かれています。出典:Ohmi Gallery

神事との関わりも薄れ、今日のようなイベントとなったのは1927年(昭和2年)のこと、伊達正宗が婦女子の教育のために始めたという有名な仙台七夕を商店街の有志らによって振興策として行ったのが始まりのようです。
その後、復活するのは戦後、復興イベントとして東日本を中心に七夕行事が広まり、商業化が進むと各商店街が集客のため競うように派手な七夕飾りを飾っていくようになりました。
そして現在では、商業の中心が商店街から郊外に移っていくにつれ多くの七夕祭が消えてしまい、一部の大規模化した七夕祭が残っているのみとなっています。

しかしながら、古い暦の7月7日は現代の8月半ば頃に当たり、快晴が続く暑い盛り(季節は秋に属するので、秋のお祭)、7月15日の盂蘭盆(お盆)が季節感に合わせて1カ月後の8月15日に行われるのに対して、7月7日というゾロ目の数字が大好きな中国人の伝統を尊重してそのままの日で行われ日程変更の論議もあまりなされないまま放っておかれたため、1年の内で星が見える可能性が最も低い雨季(梅雨)の最中に行われる最も間の悪い行事、と言えなくはない。日本独自に進化した七夕なのにね。

短冊に願いことを書いて笹に提げると願い事が叶う…らしいから、何気に飾って酒でも飲みながら日本の夏を代表する風物詩である七夕の節句を楽しむのも良いのかもしれませんね。

出典:七夕/コトバンク
出典:七夕
出典:江戸食文化紀行
出典:日本語を味わう辞典

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