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美味しいけど、見た目茶色く昭和な食べ物「佃煮」

美味しいけど、見た目茶色く昭和な食べ物「佃煮」

佃煮というと、小さい頃におばあちゃんがイナゴの佃煮を作ってくれて、バッタの仲間だし虫捕りで遊ぶのは好きだけど…、そんな形状そのままのバッタを口に運ぶのはハードルが高く、でも折角作ってくれたのだからと一匹…、歯にイナゴの足が引っ掛かり味はどうだったかなど思い出せず、非常に嫌だった記憶があります。

知らない人(自分も同じく)が多いと思いますが6月29日は「佃煮の日」らしく、海苔の佃煮なんか昭和という感じがするのだけど、なのでご飯のお供や酒のつまみになる「佃煮」について調べてみることにしました。

江戸切絵図 築地八町堀日本橋南絵図
「江戸切絵図 築地八町堀日本橋南絵図」景山致恭,戸松昌訓,井山能知 画(1849-62年)出典:国立国会図書館

江戸後期から明治期に埋め立てが進み、北側にある石川島とつながり、1964年(昭和39年)に佃大橋ができて島ではなくなりました。佃1丁目南部は古い町割りのままで、昔風情をを見つけることができ、江戸時代から続く佃煮店もあります。

佃煮の「佃」は、上記の小さい佃島(現在の東京都中央区佃1丁目の南部分)の地名に由来しています。
佃島は、隅田川河口の中州・石川島の南にあった干潟を1645年(正保元年)に土砂を埋め立てて島とし、江戸幕府に招かれた摂津国(大阪府)佃村の漁夫33人が移住し住むことになり、この島を故郷にちなんで佃嶋としたのが始まりです。

そのいわれとして語られるのは、本能寺の変(1582年)で徳川家康が大坂から脱出する際、摂津の佃村の漁民が漁船を手配して危機を救ったため、恩義を感じた家康が佃村から漁師を呼び寄せ、白魚漁(しらうおりょう)の漁業権や江戸湾全域での漁業権、無税で全国どこででも漁業ができる特権を与えて佃島に住まわせたというもの。そのため毎年11月から3月までの間、ここで捕れる白魚を江戸城に献上していました。
なお、白魚は家康の大好物で、透けて見える脳部分が徳川家の家紋「三つ葉葵」に似ていたことから、将軍家では代々珍重したと伝えられています。

しかし、家康の大坂脱出・伊賀越えルートと佃村には接点がないので、漁船の手配云々は眉唾のようです。本能寺の変以前に家康が上洛した折、神崎川の渡船を手配したのが佃村の名主・森孫右衛門であり、それ以来家康と佃村は縁ができ、伊賀越えの際も物資供給など手助けをおしまなかったとする説もあり、こちらのほうがあっていそうです。

また、もともと佃村は田蓑(たみの)村という小さな漁村で、特権とともに「佃」という名前も家康から与えられたもの。漁民は家康の恩賞に感謝し、年に一度江戸へ魚を献上していましたが、毎年江戸まで行くのは大変なので、江戸へ移住したい旨申し出ると、家康は快諾し埋め立てた島を与えた、という説もあります。

「名所江戸百景 佃しま住吉の祭」歌川広重
「名所江戸百景 佃しま住吉の祭」歌川広重 画(1857年)出典:国立国会図書館

摂津国(大阪府)から佃村に移住した漁民は、信仰していた住吉大社の分霊を祀る住吉神社を1646年(正保2年)6月29日に建立、毎年夏に行われる住吉神社の祭礼では海中で神輿が担がれ、中央に大きく配された「住吉大明神」の幟が立てられました。祭りの際の佃囃子(ばやし)は江戸三大囃子の一つとさます。なお、この29日を“ツク”と語呂あわせして2004年に「佃煮の日」と制定されたとか。

「江戸名所 永代橋佃嶋」歌川広重
「江戸名所 永代橋佃嶋」歌川広重 画(1839–42年)出典:ボストン美術館

永代橋から右手に見える大型船と佃島を描いた絵。永代橋は隅田川(当時は大川といった)に架かる千住大橋、両国橋、新大橋に次いで4番目の橋として、1698年(元禄11年)に造られました。長さは120間余り(約220m)で、中央区日本橋箱崎町の南部にあった北新堀町と深川の佐賀町を結んでいました(現在の永代橋よりも130mほど上流に架かっていました)。

いずれにしろ、江戸城中や諸侯へ納めていた以外の残り物の小さな雑魚(ざこ)を、悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため調味料で煮つめて自家用の常備食としていて、航行の安全を願って住吉神社へ参詣に来た江戸の廻船問屋や商人たちへ御神酒や新酒のつまみとして出していたようです。
そして、味も変わりにくく保存がきき、値段も安くできるところから、佃島の近辺で1800年代にある店(諸説あってどの店かわからん)が工夫して販売を始めるようになります。初めは塩味のものでしたが醤油が普及した江戸後期からは醤油・砂糖・みりんなどで煮るようになり、佃島でつくられたところから佃煮と呼ばれて江戸の名物となりました。
さらに、諸国の侍たちが参勤交代で帰国する際、佃煮を土産物として持ち帰ったところから、江戸名物として全国に広まるようになりました。
余談ですが、日本橋魚河岸(関東大震災の被害によって築地に移転されるまで)の始まりも、江戸時代初期に佃村の漁師たちが幕府に納めた残りの魚を日本橋で売るようになってからと言われています。

桃屋の江戸むらさきホーロー看板と1950年の江戸むらさき瓶詰
桃屋の江戸むらさきホーロー看板と1950年の江戸むらさき瓶詰

昭和の朝食の佃煮といえば、“何はなくとも江戸むらさき”や“ごはんですよ!”のキャッチコピーが有名だった桃屋が製造する青のりの佃煮。1950年(昭和25年)4月に誕生した瓶詰めの「江戸むらさき」は大びんで180g入り50円だったとか。
ネーミングの由来は…、古代から紫色は高貴な色とされてきましたが、これは「京紫(きょうむらさき)」のこと。江戸時代には赤みが強い京紫に対して青みの強い「江戸紫」が創作され、江戸庶民に親しまれました。江戸の代表的技芸であった小唄の稽古本表紙もこの「江戸紫」色を使っていたことと、桃屋の創業者である小出孝男氏は小唄に造詣が深く、海苔の佃煮を発売するにあたってこの色に着目、また醤油のことを「むらさき」ということから、それらに因んで「江戸むらさき」としたようです。

そして、懐かしい「のり平アニメCM」は1958年(昭和33年)に始まり、実に半世紀以上に渡りシリーズは続いています。“地球は青かった、江戸むらさきはうまかった”などの今までの動画は桃屋ホームページで見ることできます。→「のり平アニメCMギャラリー」

ご飯と海苔の佃煮
ご飯と海苔の佃煮

佃煮(つくだ煮)とは、魚介類、海藻、野菜などを醤油を主とした調味料で煮つめ、保存を目的とした加工食品。
魚介類といっても、売り物にならないゴミのような小魚や貝(個人の偏見です)を茶色く煮しめているので、見た目が貧相(個人の感想です)な上に、“あなたの健康のために食べ過ぎに注意しましょう”とか“危険:必ずご飯と一緒にお食べ下さい”という注意書きが必要なほど(実際にはそんな注意書きはない)、少量でご飯を多量にかっこむのに適した、日本が貧乏だった時代を象徴するような食べ物、とも言われています(汗。

とはいえ、保存性がよく常備食として普及していて主な物でも100種類以上ある佃煮は、江戸時代に誕生し長く親しまれてきたことから伝統ある食べ物と言えるのかもしれないし、白米のお供に最適なおかずですよね!

出典:佃煮/コトバンク
出典:佃煮
出典:永代橋佃しま
出典:日本語を味わう辞典

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