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隠れ家的で少々ダークな秘密主義を匂わせる「バー」

隠れ家的で少々ダークな秘密主義を匂わせる「バー」

バーというと、銀座の高級バー(接待を受けた)からプールバー、新宿2丁目のゲイバーやショットバーなど様々なジャンルの店にいきましたが、その中でも少々足繫く通ったバーがありました。
その店は原宿のペニーレイン近くにあったのですが、店内はダークな色調で統一され、薄暗いカウンターにはカッシーニの黒皮のシンプルな椅子が置いてあって高級そうだけど、奥のテーブル席はいつも数人が賑わい、それでいて上品なインテリアが目を引くミニマルなバーでした。 
いつもカウンターに座るのだけど、初老に差し掛かるであろうバーテンダーが相手をしてくれて、おそらく、その方の柔和な話術とさり気ない気遣い・接待にはまってしまったのかな、と思ったりします。
後で知ったことだけど、この方は銀座の銘バーから原宿に店舗を構えたプロのバーテンダーでした(頷けます)。

辞典でしらべると、バーとはカウンター形式の洋酒を飲ませる欧米風の酒場、バーテンダーは客の注文に応じ、カクテルなどの酒類を調合し(後に調合する技術者をいうようになった)客をもてなす人。
本格的なバーの楽しみは、各種カクテルや洋酒を味わい、人生経験豊かなバーテンダーや、あるいは常連客同士の会話にあるとされます(コトバンク、より)。
ということで、前回の「電気ブラン」から続き、バーについて調べてみることにしました。

各種カクテル
各種カクテル。出典:pixabay

バー(bar)が登場したのは16世紀後半のイギリスで、日本では明治初年頃とされます。

昔のヨーロッパの交通が未発達の時代には、旅行者のために食事や酒とともに宿泊を提供する店が必要であったため、居酒屋tavernには宿屋innを兼営している店が多かったそうです。

なお、これがイギリスで総称的にパブ(パブリック・ハウス[public house]の略)と呼ばれている居酒屋の原型で、17世紀になるとパブは、コーヒーと酒(ビールやワイン)を売る店を指すようになり、その後、高級な酒場はsaloon・saloon barと呼ばれ、パブは大衆向け酒場を意味するようになったとか。日本ではバーとレストランが一緒になった店をパブと呼び、1960年(昭和35年)前後から流行し始めたようです。

これらの店の前には、馬で乗りつけた客が手綱を結びつけられるように2本の杭に差し渡した1本の横木・バーbarが用意されていて、それがやがて16世紀後半のイギリスでカウンターとその横木を備え、酒がメインの軽い食事を提供した居酒屋を意味するようになったそうです。

他にも、アメリカの西部開拓時代(1860年代から1890年代頃)当時、酒場では樽から酒を注いで売っていたのですが、勝手に自分で注ぎ飲もうとする不埒な輩がいて、これを防ぐために酒樽と客の間を仕切ったバー(棒)からきたという説、このバーに番人という意味のテンダーが合わさりバーテンダーとなった、とも言われています。
また、東屋(あずまや/壁がなく柱だけの小屋)の意のバウァーbowerからきた説、カウンターの足置き場をバーと呼んだという説などもあります。

「横浜海岸各国商館図」歌川広重 画
「横浜海岸各国商館図」歌川広重 画(1871年)出典:神奈川県立図書館。異国情緒溢れる開港地・横浜の様子

日本では1860年(江戸末期)に、横浜外国人居留地に日本家屋を改装して開業したオランダ人経営「横浜ホテル」に設けられた外国人相手の酒場が、日本初のバーとされています。1863年にも、やはり横浜にできたイギリス人創設のクラブの中にバーが設置され、こちらは日本人の武士も訪れて飲酒したそうです。

その後、日本人を対象としたバーは1876年(明治9年)に開業した東京・銀座の「函館屋(当初は氷屋、後にはアイスクリーム、そして洋酒の一杯売りをしてバーの元祖とも)」という高級バー、1880年(明治13年)には東京・浅草の居酒屋風大衆バーな「神谷バー」が開店、この店はのちに“電気ブラン”という甘く強いカクテルをつくって人気を集めました。

そして女給が接待し洋酒等を飲ませる「カフェー」と呼ばれる、現在のキャバレー・バー・喫茶店等の要素をあわせ持った店が1911年(明治44年)東京・銀座に「カフェー・プランタン」、バーテンダーのいる店として「カフェー・ライオン」、次いで「カフェー・パウリスタ」が開業しました。
大正末にはカフェーやバーが全国に普及しましたが、しだいにカフェーは純粋な喫茶店とに分かれ、戦後のカフェーはキャバレーやクラブへと風俗営業化していったとされます。

1920年代後半からは“十銭スタンド”と呼ぶ10銭で洋酒が飲める安価な洋風酒場も各所にでき、バーやカフェーは1930年頃から7~8年間が流行のピークだったようです。
なお、当時は昭和不況で今の100均店のような“十銭ストア”や一品十銭均一で飲食できた“十銭食堂”が流行っていたとか。

カフェー・ライオン店内(大正期)
精養軒が経営のカフェー・ライオン店内(大正期)。出典:サッポロライオン
十銭スタンド「バー・トップ」広告
十銭スタンド「バー・トップ」広告(大正期)。出典:日本の酒文化用語集成

戦後は洋酒ブームや高度経済成長期の社用族(社用にかこつけ社費で飲食する者=斜陽族)の勢いにのって高級バーが増加するかたわら、店のオーナーもしくは支配人の“ママ”と呼ばれる女性と、“女給”のちには“ホステス”と呼ばれるようになる女性が、客の話し相手やダンスの相手となって接待サービスを提供しながら酒を飲ませる庶民的なスナックバーが昭和30年代に増加していきました。

ちなみに、バーのバーテンダーはあくまでお酒の味を楽しむことを目的とした最低限の接客なので深夜営業は許可され、一方、バーの一種のスナック(正式名称はスナックバー。ラウンジ[クラブとスナックバーの中間的接待飲食店]やガールズバーなど含む)・クラブ(高級クラブとも言われる)は風俗営業とされていて、風営法で0時以降の営業が認められていないそうです。
あとショットバーとは、かつてボトルキープが主流だった頃(1970年代とも)のバーに対して、1杯から酒を飲むことができるバーのことを指すようになった和製英語だとか。

特殊なバーとしては、ビリヤードができる「プールバー」や独特の雰囲気が楽しめる「ゲイバー」などもあり、1990年代になるとお洒落なインテリアのカフェバー・ワインバーや食事もできるダイニングバーなどが若い人たちの間で人気を集めるようになって今に至ります。

バーの店内
バーの店内。出典:Unsplash

ということで、酒にまつわる話・2
バー、新宿というと、ある出版系の社長の事を思い出します。初老のとても人当りの良い方なのだけど、飲み方が…浴びるように飲む。なので最後はいつも介抱する羽目になるのだけね。
この社長、よく一人で新宿に飲みに行くらしく、その時の失敗談など、新宿の落ち着いた感じのお洒落なバーで数人と飲んでいた時などに面白おかしく話してくれました。
その中でも強烈だったのが、歌舞伎町ではしご酒をして、気が付いたら歌舞伎町入り口靖国通り沿いのごみ置き場で、パンツ一丁な状態で寝ていた、つまり追いはぎに合いパンツ以外全て盗まれた、という笑うに笑えない社長の昔話、でした。そんな飲み方してたんじゃそうなるよね、とは思いましたが。

しかし酒のアイデンティティ、アルコールとはなんでしょうね。人を気持ちよくさせたり、気持ち悪くさせたり、見知らぬ人を旧知の間柄のような関係にしたり、旧知の間柄の友人を仇同士のように殴りあわせたり、飲めない人に無理やり酒を飲ませたり、飲めもしないのに無理して飲んで死んでしまったり、誰も聴いていない歌を大声で歌ったり、その歌を無視して隣の人との談笑を優先させたりする、てんやわんやな物質、それを意味あらしめているものが酒なのかも(笑。

出典:バー
出典:バーテンダー
出典:パブ
出典:カフェー
出典:中央区のブログ
出典:スナックバー (飲食店)
出典:日本語を味わう辞典

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