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「橋」の装飾が語る町の物語

「橋」の装飾が語る町の物語

多くの川や運河が流れる東京下町、500本以上の個性豊かな橋が架かっています。橋の数の多さは東京の地形と歴史が深く関係していて、もともと江戸は多くの川が流れ込む場所でした。
その中でも、装飾が見事な日本橋や柳橋などの橋の装飾はその街の歴史や伝統を伝えてくれます。

麒麟が見守る日本橋

日本橋は、江戸城の外堀と江戸湾をつなぐために平川(日本橋川)を延長し、1603年(慶長8年)江戸開府とともにこの川にケヤキの木橋を架けたのが始まりです。
由来や命名者は不明で、当初2本の丸太を渡しただけだったので“二本橋”と呼ばれた説や、橋から朝日が昇るのを望めることから名づけられた説など諸説あります。当時、日本橋の上からは、北に上野の寛永寺、南に富士山、西に江戸城、東には海を望むことができたとか。

江戸時代の日本橋
東海道五十三次日本橋(1838年)歌川広重 画 出典:メトロポリタン美術館

ちなみに、大坂にある日本橋(にっぽんばし)も、1619年(元和5年)に紀州街道と道頓堀川が交差する大坂の水陸交通の要に江戸幕府が架けた橋でした。時が経たつとあいまいになることが多い「にほん」と「にっぽん」の読みの違いが今でもはっきりしているのは、日本の中心を競い合った江戸っ子と浪速っ子のプライドが影響しているのかもしれません。

1604年には一里塚の基点と定められ、東海道や中山道をはじめとする五街道の起点となりました。日本橋から京都まで126里半(1里=約3.93km)、当時の庶民が普通に歩いておよそ12~15日間を要したそうです。

日本橋が現在の石造りの橋に架け替えられたのは1911年(明治44年)4月3日、職工は約1万5000人に及んだ花崗岩製の二連アーチ橋で20代目、「日本橋」の文字は江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の筆によるものです。
その見事で独創的な装飾ですが、6基ある燈柱は一里塚ゆかりの松と榎(えのき)の紋様(たぶん、この時代に西洋で流行っていたアールヌーヴォー様式を取り入れたと思う)、橋の四隅には東京市(当時)の紋章を抱く獅子像、中央には左右をにらむ麒麟(きりん)像が設置されています。獅子は東京の守護、麒麟は東京の繁栄の象徴で、日本古来のデザインが採用されています。麒麟の背中には“日本中の上りの到達点”を表すため本来はない翼がつけられました。映画化もされた東野圭吾さんの小説「麒麟の翼」ではこの像が謎解きの出発点となっていますが、実は翼ではなく魚のヒレで近くの魚河岸のにぎわいを表しているそうです。また、獅子と麒麟の口は開いている閉じているなどの違いがあり、万物の始まりと終わりを象徴する「阿吽(あうん)」を表現したものかもしれません。
そして、日本橋には全部で32頭の獅子像が配置されていて、そのうち4つは橋上からは見えない位置にあるのだとか。

「東京」の近代化をアピールする西洋風の石橋は当時の日本の勢いを示し、装飾で「江戸」の歴史を表そうとしたのかもしれません。

現代の日本橋

こうして架け替えられた日本橋は関東大震災や戦災にも耐え、国の重要文化財に指定されました。
しかし、1963年(昭和38年)に首都高が日本橋の上空をふさいでしまいました。これはよく“東京五輪(1964年)に間に合わせるため用地買収が不要な河川の上を通した”と言われますが、東京の防災のためだったそうです。実は日本橋周辺の首都高は、日本橋川の水を抜いて川床(掘割)を通す案が有力でしたが、1958年(昭和33年)9月に南関東と伊豆地方を襲った狩野川台風で東京は30万戸以上が水に浸かる大きな被害が出て、日本橋川を残して大雨の排水路を確保すべきという理由からでした。

余談。首都高によって橋の美観・風格は損なわれたとはよく聞きますが、都市景観への評価は時代や見る人の視点によって変わっていくものだと感じます。そしてまた巨費を投じて景観の復活のため?首都高の地下化計画が持ち上がっていますが、どうなのでしょうか。それよりも、高度経済成長期に多く造られた橋の老朽化が問題になっていて、この橋の改修工事の方が先だと思いますが。

風流で優美な柳橋

井の頭公園に有る「井の頭池」を基点とした神田川が隅田川に合流するまで140ヶ所の橋の下を流れ、最後の橋が柳橋です。
江戸時代後期の記録によれば、幕府の命で当時の町年寄の樽屋藤右衛門により木橋が造られ「川口出口之橋」または「矢の倉橋」と呼ばれたそうですが、ほとりに柳が植えられていたことから、いつしか「柳橋」と呼ばれるようになったということです。
1698年(元禄年間)に初架橋され、現在の橋は関東大震災の後1929年(昭和4年)に永代橋のデザインを取り入れたと言われている鋼鉄製のものです。本流の隅田川まで15m、両国橋も目の前に見えます。

江戸時代の柳橋
江戸高名会亭尽、両国柳橋(1835–42年)歌川広重 画、建物は有名な料亭「万八楼」出典:メトロポリタン美術館

江戸時代初期、吉原(元吉原)は幕府公認の遊郭として今の日本橋人形町に誕生しました。葭(よし)の生い茂っていた沼地を埋め立てた土地で「葭原」だったのが「吉原」となったとか。
ここ柳橋は、元吉原から移転した、新吉原(台東区千束)へ通う出発点でもあり、柳橋の船宿から猪牙船(ちょきぶね)に乗り、隅田川を上って山谷掘りから大門入り口の衣文坂下まで…現代の屋形船の原点とも言うべきものでしょう。
橋の周辺には船宿や待合茶屋に料亭などが軒を連ね、粋な柳橋芸妓が行きかう情緒あふれる花街(かがい)として栄えていて、明治期には新興の新橋とともに「新柳二橋(しんりゅうにきょう)」と称され東京六花街を代表していました。
ちなみに、戦前の東京では23区のうち21区に花街があり、代表的な柳橋、新橋、赤坂、神楽坂、芳町(現・日本橋人形町)、浅草を六花街と呼んでいましたが、柳橋(高度成長期を境に衰退)が消滅した後に向島が加わりました。
浅草橋から柳橋の間には現在でも船宿が何軒かあり屋形船が停泊する船溜まりとなっています。

現代の柳橋

このような歴史からなのか、橋の欄干には簪(かんざし)の装飾が並べられています。そして1999年(平成11年)には中央区区民有形文化財として登録されました。

最後に

麒麟は吉兆を呼ぶ動物、明治の人々が、東京の街が世界に羽ばたいて欲しいと思いを込めて飾られたであろう意匠が立派な石造りの日本橋。かつては東京で有数の花街として賑わっていた優雅な曲線を描くアーチ型の小さな橋の柳橋。
それぞれの橋には、それぞれの街のシンボルであり、それぞれ違った物語が秘められているようです。きっと今日もどこかの橋で新しい物語が生まれているかもしれません。

出典:日本橋 (東京都中央区)
出典:柳橋 (台東区)
出典:東京の花街

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