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魅惑的で怪しげな力を持つ「骨董」、でも人によってはガラクタなモノ

魅惑的で怪しげな力を持つ「骨董」、でも人によってはガラクタなモノ

骨董というと以前よく訪れた青山骨董通りを思い出します。通り沿いに根津美術館、小原流会館などがあったことから骨董品店が集まるようになって1980年代頃から言われるようになったらしいけど、現在は数店舗のみで、小洒落たショップやカフェが多く占めた名称だけのアンティーク通りになっているようす。

老残の品物が古いおもちゃ箱をひっくり返したように雑然と積まれた店や骨董市の前を通るとつい立ち止まってしまいますが、眺めるだけで、買ったとしても価値があるのかないのか不明で怪しげな、おそらくガラクタと言われるモノです。
そういう訳が分からないモノの収集癖がありますが、骨董とは何だろうと思い調べてみることにしました。

ちなみにガラクタ(我楽多・瓦落多)とは、価値や用途のない雑多な品物や半端物のこと。小金持ちで知ったかぶりの骨董収集家のところへ、古物商が高値で売りに来る品物のこと。あるいは、親から受け継いだ古物を蔵の中に所蔵しているがそんなものにはまったく関心のないあなたのところへ古物商が来て“ガラクタばかりですねぇ”などと言いつつ安値で引き取ろうとする品物のこと。また、視点によっては価値を見いだされる場合もある品物のこと。
ガラクタの「ガラ」は物がぶつかりあう「がらがら」という音、「クタ」は腐ってぼろぼろになるという意味の「朽ち」のなまりとも、ゴミという意味の「芥(あくた)」の略とも言われています。「瓦落多」「我楽多」は当て字ですが、我楽多の方はガラクタを集めて一人悦に入っている収集家を皮肉ったような、なんか気になる当て字です。

招き猫・福助など、骨董市の風景
招き猫・福助など、骨董市の風景

骨董を収集して楽しむという風習は、室町時代から始まったようです。
足利家の将軍は代々、様々な美術品・骨董品を明との貿易で手に入れ秘蔵していたそうですが、この当時は、大名や豪商のようなお金持ちの趣味とされていました。

安土桃山時代、若い頃より茶の湯に親しんでいた織田信長は、1568年(永禄11年)頃に堺の商人から茶器を献上されたのをきっかけに畿内の茶人から高価な茶道具(いわゆる「名物狩り」)を買い取り、それらを茶会で披露したり、配下の武将たちに褒章として与えたりして、収集した道具類を政治的に利用し富と権力を誇示するようになりました。
このようなことから、名物と称される茶道具を持つことや茶会を開けることが武将としてのステータスとなり、一国一城に匹敵する価値があるとも言われるようになりました。

もともと大名や豪商が親しんでいた茶道が、江戸時代になると庶民でも趣味として楽しめる流派の登場によって広まり、江戸中期頃から昔の人が愛用した茶道具類を骨董と呼び“骨董品”として収集されるようになっていったそうです。これらを専門に販売する骨董商が生れたのもこの頃とされます。

なお、初期の骨董は“ごたごたした雑多なもの、つまらないもの”という意味で、骨董羹(こっとうこう/魚肉や野菜などをいろいろまぜた味噌雑炊)や骨董飯(こっとうはん/五目飯のような混ぜご飯)、骨董箱(雑多なものを納めておく箱)などという使われ方をしていたようです。

明治時代の骨董屋
明治時代の骨董屋。出典:Flickr
明治時代の骨董屋
明治時代の骨董屋。出典:Flickr

茶道具以外に、絵画や書画、掛け軸、家具、仏像や仏具など幅広く取り扱うようになったのは明治時代になってからで、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく/仏教を廃絶すること)の政策や経済的に息詰まった大名家が売りに出した影響が大きかったようです。
一方で、これらを収集し始めたのは、明治から大正時代に力をつけてきた新進の財界人・外国人たちでした。
ちなみに、1876年(明治9年)に開館したボストン美術館の約50万点にものぼる作品中、日本美術コレクションは10万点(国宝級の作品もあり)を超えるといわれています。また、この頃、希少価値のある古い美術工芸品の総称を「骨董」と呼ぶようになりました。

大正時代に入り、第一次世界大戦が始まると大戦景気から成金(なりきん/貧乏だったのが急激に富裕になった人)と呼ばれる人たちが登場し、骨董品の取引が一気に活発になりました。
昭和では戦後の高度成長期に再び骨董品にスポットがあたるようになり、「サントリー美術館(1961年)」や「五島美術館(1960年)」が次々と開館し、庶民も骨董に興味を持つようになったのがこの時代でした。

そして1972年(昭和47年)に日本列島改造ブームが起きると、全国各地の古い家屋が取り壊された際に出た伊万里焼や民芸品や美術品などが都心に集められ骨董ブームがおきました。日本初の大型骨董常設店「東京古民具骨董館(1979-1987年まで)」が東京神保町にでき、観光バスでお客様が訪れるほど盛況だったそうです。
骨董品を「アンティーク(Antique、フランス語)」と呼ぶようになり、若い人の間でも古い時計や玩具などを集めるコレクターが登場し、現在に至っています。
こうして、最初は人が使うためだった道具類の骨董は、飾られ、眺められるものになっていきました。

明治時代の骨董屋
明治時代の骨董屋。出典:Flickr

なお、骨董の定義は、1934年(昭和9年)にアメリカで制定された通商関税法に「製造された時点から100年を経過した手工芸品・工芸品・美術品」とされ多くの欧米では、この規定に従っているとか(WTOも採用)。また、100年を経過してない物はジャンク(junk)、ジャンクの中でそれほどの価値を持たない中古品はラビッシュ(rubbish)などと分類がされているようです。

日本では、絵画や掛軸の類以外の古く希少価値のある道具類や家具を「骨董」、上記定義に基づいた100年に至らないものを「古道具」「古家具」、古いものでも希少価値がないものは「リサイクル商品」「リユース品」あるいは「我楽多」、他にもギターやジーンズなどの質が良く人気があるものは「ヴィンテージ(vintage、元はワインの製造年代を表す言葉)」、復刻版や骨董に似せて製造されたものは「レトロ」と区別しているそうです。レトロの記事はこちら→もう出会うことができない「昭和レトロ」

宿場町の骨董屋
宿場町の骨董屋

古道具のうち100年を経過し美術的価値や希少価値のあるものが「骨董」、しかし大半の古道具は手垢がついて薄汚れていればただのゴミ・ガラクタでしかなく、そんなものが「骨董」と呼ばれるには、よほどの有力者のコネや評価がなければならないでしょう。
また、骨董品とは、考え方が古く役にたたない垢にまみれているような人物の比喩であり、“早く死んで若い者に道を譲ってくれ”というみんなの呪いがこもった言葉でもあります。
このように長らくマイナス評価の言葉として用いられてきたので、近年では価値のある骨董品について、手垢がついていないようなイメージの「アンティーク」などという小洒落た言い方を使うようになったと思われます。
ということで、怪しげな力を持つ「骨董」をあつかう時は、ものにしろ人にしろ用心が必要かもですね。

さて、自分が集めたガラクタは骨董にはならないけど、回顧趣味収集家のコレクション対象となるかもしれない、なんて淡い期待を持って出品しようかと思い巡らせている今日この頃です。

出典:茶道具商 徳望庵
出典:古物商 池屋美術
出典:骨董品
出典:骨董
出典:日本語を味わう辞典

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