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「もののけ姫」での神殺しとは

「もののけ姫」での神殺しとは

ジブリ作品は全般的に好きですが、その中で、1997年に公開されすでに20年以上経っている「もののけ姫」について今更ながら書いてみたいと思います。

「もののけ姫」の面白いところは、“神”を、イノシシやオオカミという物理的な存在として動物の姿で描かれているユニークさです。人間よりもヒエラルキーの高い聖なる動物としてイノシシやオオカミなどが描かれていて、見ているうちに、そうした概念を共有している古代社会にある種のユートピア的なものを感じます。あの世界に、ちょっと森に入れば聖なる存在に出会える可能性があるわけで、そうしたところも「もののけ姫」に惹かれるところかもしれません。

なお、「もののけ姫」の事件が発生した時代は“神話やファンタジーの世界が残っていた最後の時代”と宮崎駿氏が言った室町時代とされています。

もののけ姫
もののけ姫 出典:Fancaps.net

以前の外国人による感想で「なぜ神を殺すのか?」というものがあり、確かに、いったいどのような宗教観から神殺しという発想がでてくるのか?というのは、とくに外国人からは興味のある部分なのだろうな、と感じました。
クライマックスで森の主であるシシ神を殺しその首を狩るというシーン、これは日本人の目からも普通にショッキングなシーンであり、だからこそあの作品の力強いメッセージが生きてくるのだと思います。

「もののけ姫」での神殺しは、人間と神を対立構造ととらえたうえで、文明と神話、あるいは科学と宗教との相克を象徴しているような印象で、これは主人公の本意ではなく、鉄を作る村を治めるエボシの意志であり、それを後押ししているのは天朝、つまり国家権力です。国家による神話世界の破壊が神殺しであり、宮崎監督は、あくまで神殺しを否定的に描いているようにみえます。ここで殺される神は、一神教の神ではなく、ひとつの森を治める八百万(やおよろず)の神々のうちの一柱でしょうから、西洋的な視点からは精霊・自然霊に類する存在が近いのかもしれません。

神は崇高な存在ですから、ついつい“神殺し”は絶対的な悪なのだ、という条件反射的な思い込みが現代人にはありますが、アメリカ先住民のインディアンの神話に、バッファローは獲物であり同時に神でもある神聖な動物として描かれます。

動物に対するインディアンの関係は、動物に対する私たちの関係とは対照的です。私たちは動物を、より低い生物と見なしています。聖書には、私たち人間が支配者だと書いてあります。さっきも言ったように、狩猟民族のあいだでは、動物はいろいろな意味で人間よりまさっています。あるポーニー・インディアンからこう言われたことがあります─「万物の始まりにおいて、知恵と知識は動物と共にあった。創造神ティワラ(天上の一者)は、人間に直接語りかけることはなく、ある種の動物を遣わし「私は動物を通して自分を表す」むねを人類に告げさせた。だから、人間はそれを動物から、そして、星や太陽や月からも、学ばなくてはならない」と。

出典:「神話の力」ジョセフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著(1992年、早川書房)

そして、日本人の動物観でも、人と動物を区分けするのではなく、同じ自然の一部として人間の命と動物の命を同質のものと捉えていました。人に関わった様々な生き物・尽くした動物を供養や慰霊する石碑や石仏は、各地に数多くあります。例えば、「馬頭観世音」「犬頭観世音」は人のために働いた動物、「豚頭観世音」「鶏霊供跪塔(くきとう)」「猪頭観世音」「鳥獣魚供養塔」「鹿供養塔」「鯨墓」などは食用に供された動物、他にも「虫塚(農民にとっては憎んでも余りある害虫だが、その命を奪ったということで慰霊した)」や「犬猫供養碑(皮を三味線に張った邦楽関係者が建てた)」や、将軍が鷹の生き餌として農民に採集させた昆虫の「螻蛄(オケラ)供養塔」までもあります。なお、「鯨墓」では鯨の位牌や戒名が捕獲年月日、場所、鯨組(捕鯨の漁民組織)などとともに記されていて、鯨を人と同じように祀ってあります。そして現在でも、お参りとお供えが絶えることがないという。
くじらに関する記事はこちら→レトロな商標ラベルから見る「鯨食文化」
つまり、獲物は食べられるためにいったんは殺されますが、食べられることで別の生命としての神聖なものとして生きることになるようです。

また、タヌキが人に化けたり、ヤマトタケルが死後白鳥になったり、「ツルの恩返し」の民話のように、人と動物の間に、恐らく神でさえも優劣なく変身が行われます。ここには、自然との“一体感・同一視・統合観”といったものを大切にしてきた日本人の思想的な背景があるのかもしれません。そして“自然は人間がそこに溶け込むところ”と見る日本独特の自然観があるように感じます。
神といってもたくさんいて、日本には「八百万の神(よい神様も悪い神様も含めて)」がいると伝われていて、太古の昔から、自然界に起こる様々な現象や天変地異、海や山をはじめ、石ころひとつにも神が宿っていると考えていました。(八百万とは“数え切れない程たくさん”という意味)

ちなみに、西洋では「自然は人間が利用する対象」であり支配・コントロールできるものと考えられていて、動物は所詮動物であり人間と対等にはなれない、劣ったものとみる動物観をもっているようです。そして一神教の宗教観は、人間がいくら足掻(あが)いても神にはなれませんし、神から見れば人間とは塵芥(じんかい)に等しい存在、人間は神の命令をなにも考えずに実行していればいい、という神の〇隷なんだとか。

しかし、そういった彼らを見下すような考えに立たつよりも、古代人やインディアンの考えのように、神聖なる存在としての動物、という視点のほうが、より調和的な思想のような気がしてきます。そもそも弱肉強食という自然観の“弱さ”というものを劣った属性として考えてしまうことも先入観でしかなく、かつて「美しさとは弱さです」と太宰治がいったように、弱さ、儚さ、脆さ、というのは“美”を際立たせる属性でもあります。ポーニー・インディアンの言葉で、犬や猫や雲や風など森羅万象が人を導く教師であるという考えは、途方もなく謙虚で壮大な思想だと感じます。そういう視点で物事をみれる心の状態こそが“悟り”のような境地なのかもしれないですね。

もののけ姫
もののけ姫 出典:Fancaps.net

ということで、シシ神とは

無数の動物の様態を持つ「生と死」の自然神。
樹木の角が多数ある頭、青い紋様の入った猿のように赤い顔、人間のような面容、猫のような目と鼻、ヤギのような耳、猪のように前身が発達した胴体、カモシカのように長い体毛、小さな犬のような尾、3つの蹄のある鳥のような脚…と、無数の動物の様態を持つ霊獣か瑞獣(吉兆が起こる前兆とした現れる霊妙な獣、この世の動物達の長、神獣)のような姿をしている。

出典:ピクシブ百科事典

宮崎駿氏、曰く「下級の神として描いた」との事。夜にデイダラボッチと呼ばれる巨大な姿に変身しますが、このような巨人等には堕ちた神や神の子孫などの伝承が見られます。

物語では、善か悪かなどという単純な価値観では計り切れない複雑な人間模様、人と自然の共存、差別問題や憎悪の連鎖、理不尽な現実の中で生きる動機を見喪いつつある現代の子どもや若者たちにそれでも足掻いて「生きろ」と告げるメッセージ、喪われた自然は二度と同じ姿には戻らないというメッセージもまた示唆されています。

最後に、江戸時代に描かれた浮世絵で、十二支の動物がひとつになった不思議で可愛らしい姿が目をひく、歌川芳虎の「家内安全ヲ守十二支之図」。家内安全の護符として人気なのだとか。シシ神に相通じるかもしれませんね。

歌川芳虎の「家内安全ヲ守十二支之図」
歌川芳虎 画「家内安全ヲ守十二支之図」出典:ボストン美術館
遠浪斎重光 画「寿」「十二教訓」
こちらは十二支合体している「寿」という縁起の良い獣。遠浪斎重光 画「寿」「十二教訓」(1848〜54年頃)出典:ボストン美術館

出典:もののけ姫

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