お正月の風物詩「年賀状」、あなたは出しますか?
書状・はがきや荷物などを宛先の人に送り届ける通信事業で、遠方との通信手段として利用されてきた「郵便」。
郵便という機能が通信文の送達ということにあると考えれば、紀元前6世紀に公用のために駅伝制度(一定の距離ごとに馬と人員とを置き、重要な命令や報告を馬を乗り継ぎながら送達した)が古代ペルシアで始まったといわれています。
日本での通信文の最古の記録は、聖徳太子が隋の煬帝に送った手紙でした。その後、大化の改新の頃には駅伝制度の通信施設が整備され、鎌倉時代には早馬、飛脚といった通信機能が武士の間で使われるようになります。
戦国時代には大名の書状送付に飛脚が利用され、江戸時代には幕府の文書を運ぶ「継飛脚」、大名が地元と江戸の連絡をするための「大名飛脚」と通信が活発化しますが、いづれも幕府御用の公用の通信施設(駅を結んだ駅馬(えきば)と武家の早馬)でした。
そして17世紀の後半、江戸~京都~大坂間を結ぶ町飛脚が開業され、ここに初めて民衆の利用に供する民営の郵便が発足します。しかし飛脚の料金は高く、送達の速度も一定していないため、一般の庶民には利用しにくかったようです。
遠方に赤富士が見え、霞の残る早朝の中、田畑にのびる堤の上を疾駆する三騎連れだった武士、領国への急を知らせる早馬のようです。右端に描かれているのは法令などを掲示する高札場(こうさつば)だとか。なお、1873年(明治6年)5月に飛脚業者を廃止して政府独占事業となりました。
まんじゅう笠の郵便外務員の音吉に扮した歌舞伎役者・五代目菊五郎のりりしい姿を描いています。郵便創業時は郵便と白抜きされた紺の藍染め法被(はっぴ)を着用していましたが、1872年(明治5年)から洋服が採用され、この制服は、和装が一般的だった当時、赤のラインを効かせた斬新なデザインで人々の目を引きました。1872年に開通した鉄道とともに文明開化を象徴するものでした。
四日市とは江戸橋近辺の地域名で、江戸橋の近くにあった四日市郵便役所を描いたものです。駅逓寮(えきていりょう/明治元年・1868年に設置された交通通信担当官司)とは、かつて存在した郵便や通信を管轄する中央官庁・逓信省の前身です。その前を、郵便物の輸送をしている郵便外務員が馬に乗って走っている姿は、大変珍しく「郵便」を広めるための広告塔として効果的だったようです。
庁舎は、1874年(明治7年)4月30日に竣工、瓦葺き木造漆喰仕上げ二階建ての洋風建築。一面文字板の時計塔が正面入り口上部の切妻中央に設置されて、これが時を知らせ東京名所の一つとなっていました。文字板の直径四尺(約1.2m)の時計はファブルブランド輸入の舶来製。しかし、1888年(明治21年)に失火により時計もろとも焼失してしまいました。
明治時代になると、飛脚に支払う料金があまりに高額であることに着目した交通運輸の事務を担当していた前島密(ひそか)が、外国の制度に倣い郵便の国営を提案、そして1871年(明治4年)4月20日に近代的郵便制度が国営で始められました(現在ではこの日を逓信記念日としています)。郵便の路線は、まず東京~京都~大阪間に開かれ、東京・京都・大阪に最初の郵便役所が設置されました。これが現在の郵便局の始まりです。1872年8月にはほぼ全国に延長されたようです。
同時に郵便切手も発行されます。当時の切手は送り先の距離によって4種類の料金がありましたが、1873年(明治6年)4月には全国均一料金を実施します。
ちなみに、日本初の記念切手は、1894年(明治27年)に明治天皇大婚25年祝典を記念して発行されたものだとか。
正式名称「郵便差出箱」というポストも郵便制度が始まった1871年(明治4年)に設置されました。創業時の郵便ポストは「書状集箱」「集信箱」等と呼ばれ、東京・京都・大阪の3都市用と東海道宿駅の街道筋用のものとがあり、東京に12カ所、京都に5カ所、大阪に8カ所、そして3都市を結ぶ東海道の宿場62カ所に設置されました。
1901年(明治34年)、火事に強い鉄製の赤色丸型ポストが考案されると“赤くて丸い”ポストの時代が始まりました。赤色にしたのは目立たせるためで、丸型にしたのは通行の邪魔にならないための工夫でした。1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、物資不足のためにコンクリート製や陶器製のポストが出現しましたが、終戦を迎え、物資の入手が軌道に乗るようになった1949年(昭和24年)から新しい鉄製ポストとして郵便差出箱1号(丸型)が設置されました。
この昭和レトロな赤い丸型ポストは1969年(昭和44年)まで製造され、最盛期は55,500本余を設置、現在は約5,600本が現役として使用されています。
以降は郵便物の大型化や交通の障害になる等の理由で多くは角型ポストに変更されました。
基本的に赤色ですが、法的には別にポストが赤でなくても問題ないのだとか。速達用としては青色、抹茶の産地の愛知県西尾市は抹茶色(緑色)、映画『幸福の黄色いハンカチ』にちなんで宮城県大崎市は黄色、千葉県銚子市は犬吠埼の灯台にちなんで白、島根県松江市の興雲閣には幸運のピンクなどのポストが設置されています。
そして新年に贈るはがき、SNSや電子メールや携帯電話が発達した今でも、お正月の風物詩として親しまれる「年賀状」。
起源はというと明確ではありませんが、奈良時代から年始回りと言ってお正月には各家庭に挨拶を行なう慣習がありました。平安時代には貴族・公家にもその風習が広まり、遠方の人への年始回りに代わるものとして文書による年始挨拶が行われるようになったようです。江戸時代は武士の間で文書による年始挨拶が一般化し、飛脚が発達した末期には、木版刷りの縁起物とともに挨拶文が印刷されている刷り物(引札や絵片)が配られたり販売されました。
郵便制度が1871年に始まった当時はそれほど多くはなく、1873年に郵便はがきを発行するようになると簡潔に安価で書き送れるということで、葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていきました。1887年(明治20年)頃になると年賀状を出すことが年末年始の行事の1つとして国民の間に定着したようです。
年始回りの代役として広まった年賀状ですから、当初は書き初めと同じように年始に書いて7日までに投函するのが常識でした。しかし、郵便取扱量が何十倍になったことから大量の年賀の遅配が発生し、その対処のために通常郵便とは別枠として処理するようにしたことがきっかけで12月中に投函し元旦に配送する、というスタイルへと変わっていきました。
年賀切手の発行が始まったのは1935年(昭和10年)、1949年(昭和24年)にはお年玉付郵便はがき(官製はがきとしては初めての年賀はがき)が初めて発行されました。この年賀状に付いているお年玉くじは、戦後間もない頃に大阪の会社経営者・林正治氏によって考案されました。混乱の世の中に夢を与え、収益金の一部を社会福祉に役立てれば、というのが発想の原点だったそうです。そしてこれを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていきました。
郵便番号は1968年(昭和43年)に3桁または5桁が導入され、1998年(平成10年)からは7桁の新郵便番号が実施されています。
ちなみに、「〒」マークの由来は、郵便の仕事をしていた場所を明治時代の頃は、逓信省(ていしんしょう)と呼んでいて、その頭文字「テ」をモチーフにして「〒」マークが生まれたとか。「〒」マークの読み方には、「ていまーく」「てぃーまーく」「ゆうびんまーく」などがあります。
お年玉付郵便はがきの発行枚数のピークは2003年用の44億5936万枚、以降年々減少し2021年用年賀葉書の発行枚数は19億4198万0000枚(日本郵便・2021(令和3)年用年賀葉書などの発行および販売、調べ)になっています。
一方、年賀状を出さずに電子メールやSNS等の紙以外のオンラインの手段で新年の挨拶を済ませる人も増え、また、高齢を理由に今年限りで年始の挨拶をやめる“年賀状じまい”をする人や、人口減少もあり、手間がかかるストレスや金銭的負担などの理由、さらには個人情報の管理が厳しく規制される時代となり住所を調べるのが一苦労というケースが増加し…、なので需要は今後も減少し発行枚数も減らさざるを得ない事態が続くことが考えられ、このままでは年賀状文化はあと数十年後には消えているかもしれません。
そのときには「年賀はがき」という文化が一つ消え、歴史の1ページに刻まれ過去のものとなり、そしてまた新しい文化が生まれていることでしょう。
時代の成り行きとはいえ、寂しさを感じました。表現の方法は色々あり大切なのは気持ちですが、やはり手書きには字のうまい下手に関係なく、その人の心を伝える不思議な力があるように思います。こうした時代の変化に伴って減少していくことは仕方のないことですが、心を届けるために無くすことのできない手段であってほしい、と感じました。
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