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江戸時代から始まったおまけ付きの「置き薬」

江戸時代から始まったおまけ付きの「置き薬」

薬の歴史は人類の歴史と同じといわれるほど古く、日本では1万数千年前まで遡ります。縄文時代に食料としての木の実などの採集を通して植物に精通していた縄文人たちの住居跡から、薬として使ったと見られる植物(薬草)が多数発見されています。

日本に本格的なくすりの知識が広まったのは、大陸から仏教が伝わった頃(古墳時代後期から飛鳥時代)からとされています。仏教を保護した聖徳太子は、大阪に四天王寺を建立した時に様々な薬草を育て、薬を製造・調合し処方する施薬院(せやくいん)も造ったといわれています。
日本最古の歴史書「古事記」には、因幡(いなば)の白ウサギの話など薬にまつわる話がいくつか記されています。

薬種商(薬を調合・販売する店、又その人)の始まりは室町時代とされます。

昔の薬袋
家庭用配置薬の大きな薬袋、薬の広告、説明書、院内ラベル

そして、“富山の薬売り”で有名な「置き薬」の販売法が富山で初めて始まります。置き薬とは、行商人が常備薬として家庭に預ける薬で、一定期間の使った分の代金と引きかえに薬を補充する家庭薬、配置薬です。
きっかけは、1690年(江戸時代、元禄3年)に富山藩第二代藩主・前田正甫(まさとし)公が江戸城内でにわかの腹痛で苦しむ三春(福島県)の藩主・秋田河内守(あきたかわちのかみ)に印籠から取り出した自藩の「反魂丹(はんごんたん)」という妙薬を与えたところ、ピタリと腹痛が治りました。それを見た諸国の大名から、ぜひ自分の領内でも販売してほしいと依頼されたのがルーツとされています。
やがて、全国から反魂丹の注文が殺到。前田正甫公は、富山藩の名誉を傷つけない立派な人たちを選んで薬の販売に全国へと旅立たせました。こうして配置薬販売業が始まったのです。
他にも、奈良県・滋賀県・佐賀県でも富山県の「置き薬」に続いて、全国に配置されるようになりました。
現在のクレジットとリース制を一緒にしたような販売システムは、当時としてはかなり画期的な商法でした。

配置薬
昭和レトロな置き薬の木箱

江戸時代に始まり、多くの販売員の努力によって全国に確かな地位を築いていった「置き薬」ですが、明治に入り医療医薬の近代化を進める政府による「売薬取締規則」や全ての薬に定価を付記し、その1割の額面の収入印紙を貼らせることにした「売薬印紙税」、昭和初年の経済恐慌、太平洋戦争の敗戦など苦難の歴史は続きました。
昭和30年代に入ると薬業界全体の生産が活発になり、大きく伸びていきます。
昭和36年から始まった国民皆保険制度の医療費の増大により、現在は、治せる病気は自分で治すというセルフメディケーション(自己治療)や健康管理に「置き薬」が見直され、地域医療の担い手として定着しているそうです。

昭和レトロな救急箱
昭和レトロな救急箱

せっかく薬を預けても、必ずしも使ってあるという保証はどこにもありません。その上、当時は今の様に新幹線や飛行機、車等も無い時代です。にもかかわらず、売薬さん(当時の呼び名)は、自らの足で長い道のりをかけて得意先を訪ね、病気に悩む顧客の相談に乗って的確なアドバイスを行ったり、時には励ましたりして生きる希望を与えていたそうです。又、浪曲や浄瑠璃を語って聞かせる等を行い、楽しませたりもしました。
病だけではなく、心の癒しも担っていたのですね。だから、庶民から幅広い支持を集めることにもなったのでしょう。

そして、富山の売薬さんの特長として、江戸時代後期から“おまけ(お土産)”を持ってきてくれるなどして喜ばれていました。これは、日本初の販促ツールだそうです。
浮世絵(売薬版画、歌舞伎役者、風景画)や、紙風船、食べ合わせの表、レンゲの種など、又、お得意様には輪島塗や若狭塗の塗箸、九谷焼の盃や湯飲みなどの高級品(現在は配っていない)を配ったとか。
小さい頃、紙風船やゴム風船を頂いた記憶があります。やはり、この“おまけ(お土産)”って嬉しかったですね。

紙風船
富山の売薬さんのおまけ、紙風船

ちなみに、“庶民哲学”のような言葉も広めたそうです。
高いつもりで低いのが教養、低いつもりで高いのが気位。深いつもりで浅いのが知識、浅いつもりで深いのが欲の皮。厚いつもりで薄いのが人情、薄いつもりで厚いのが面の皮。強いつもりで弱い根性、弱いつもりで強い自我。多いつもりで少ない分別、少ないつもりで多い無駄。
寺田スガキ著『心がシャキッとする「言葉」の置き薬』東邦出版
論破できない正論ですね。心の隅に留め置くべき言葉かもしれません。

出典:全国配置薬協会
出典:富山の売薬

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