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平安時代から始まった「大垂髪」は変化していた

平安時代から始まった「大垂髪」は変化していた

皇室の儀式の際に結う正式な髪型「大垂髪(おすべらかし)」(“おおすべらかし”とも)、10月22日の即位礼正殿の儀でご覧になった方も多いと思いますが、この「大垂髪」の髪型が登場したのは江戸時代中頃だったそうです。

大垂髪(おすべらかし)

江戸時代初期までは、自然のままに長く伸ばした髪を背中にたらした「垂髪(すいはつ)」に、肩の辺りで髪を絵元結(えもっとい)で結んでその先を等間隔に水引で束ねていく「元結掛け(もっといがけ)垂髪」が「おすべらかし」と呼ばれるものでした。

「垂髪」は古代から現代までの基本の髪型でしたが、「大垂髪」は、平安時代に始まり、室町時代、江戸時代へと三段階の変化を遂げながら、現代に至っているそうです。「垂髪」は、通称「すべしもとどり」「すべらかし」とも言われました。

雛人形、大垂髪(おすべらかし)

即位礼正殿の儀式で結われた「大垂髪」をよく見てみると、「垂髪」と比べて、耳の上から鬢(びん/頭の左右側面の髪)を横大きく張りだす形(ひな祭りの「お雛様」の髪型と同じ)をしています。これは江戸時代中頃に遊里から流行がはじまった髪型のひとつ「灯籠鬢(とうろうびん)」を取り入れたものと言われています。

その頃、遊里から庶民の間で流行っていた髪型が、上流婦人の身の回りの世話をする侍女によって持ち込まれ、やがて宮中の正装となっていったというのが有力な説だそうです。ただし、宮中では髪を下ろしておく髪型が正式とされたため、横への髪の張り出しのみが採用されたのではないかといわれています。

雛人形

装いの流行は、おおよそ上流階級から庶民へと広がっていくことが普通だったので、民間の風俗が宮中の髪型に影響を及ぼしたということは、特殊なことだそう。

やがて「大垂髪」は江戸城大奥でも正装時の髪型として、婚礼などの儀式の際に結われるようになりました。
現代でも、結婚式で和装の十二単(じゅうにひとえ)衣を着る時「大垂髪」にする場合があります。

出典:大垂髪 
出典:垂髪(すいはつ)

浮世絵のレプリカ
楊洲周延(ようしゅう ちかのぶ)作、1896年(明治29年)源三位頼政(げんのさんみ よりまさ)浮世絵のレプリカ

写真にある平安時代の貴族女性をみると、とてつもなく長い髪が目を引きます。
この時代の「美女」の定義は、つややかで長い黒髪を扇のように広げて佇む色白の女性だったらしく、又、動くにはとてつもなく邪魔な長い髪は、屋外で労働の必要ない貴族女性の象徴でもあり、髪の長さが美しさと高貴な身分を表していました。そして、当時の貴族女性は生まれてからずっと髪を切ることもなく、髪が黒く長いかどうかは嫁ぎ先を決める人生を左右する重要なものだったとか。
なお、今の雛人形の原型は江戸時代後期にできたそうで、耳の上から鬢を横大きく張りだす髪型の「大垂髪」とほぼ同時期です。

「一髪 二化粧 三衣装(いちかみ、にけしょう、さんいしょう)」ということわざがありますが、女性を美しく見せるのは、第一は髪かたちの美しさ、二番目は化粧、三番目が衣装だという意味で、似たようなことばで「一髪 二姿 三器量」というものありますが、やはり一番に髪の毛が来ています。いくら美しい服やメイクで姿を装っても、パサパサな髪や髪型では女性は美しく見えない、ということですね…肝に銘じますハイ。

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