昔、「応接間」という不思議な空間がありました
昭和30年代後半から昭和40年代、高度経済成長を経て、日本のくらしが大きく変化した時代、洋風モダンな生活への関心の高まりで新しいスタイルの家が次々と建てられ居住空間にも大きな変化がおこりました。
そこにはひとつの共通点があり、伝統的な日本の家と欧米から取り入れた住まいの形が同居していました。
このころ広まった新しい家の形、玄関脇に洋風の“応接間”が家の一部として、さかんに設けられるようになります。
新築の家はもちろんのこと、農家のような古い建物にも、土壁を化粧ベニヤ板で覆い、畳を板敷にかえ、応接家具・応接セットを置くことで、客人を椅子で接待する場所がつくられました。
古さと新しさががとけ合っているのは、このころの住まいの特徴らしく、客を迎えるのは洋風の応接間、しかし家族の日常生活の場は昔ながらの和室でした。
応接間あるいは応接という室名は、明治30年代に大都市の中流住宅に出現し、戦後になって多くの家庭で広まり、その後長らく日本の住まいの典型となった形だそうです。
最近の家からなくなってしまったもの、この“応接間”自分が小さい頃、昔の家にも田舎の家にも親戚の家にもありました。
座敷には床があって神棚があって、純粋和室の設えの中に一室“応接間”、今考えると非常に不思議な空間です。
玄関脇の小さな洋館といいましょうか、家ごとに思い思いの装飾をほどこし、異国を思わせる和洋折衷な雰囲気がありました。
そこには、豪華そうなシャンデリア風の電球が垂れ下がり、サイドボードという当時の日本人の生活には使い方のわからなかったであろう家具、中には見たことが無いグラスやカップと誰も飲まない形の変わった洋酒(そのまま買ってから何年モノかになっている、当時、日本酒しか飲まなかった)とか空になったブランデー。
和風の部屋でもじゅうたんを敷き、ベルベットかビロード生地か合成皮革でできたソファセットがセッティングされて、ローテーブルの上には白いレース柄の布とクリスタルの重たい灰皿、おまけに家具調ステレオと雑誌を収納するマガジンラックなどがあったりして…。
この違和感のある洋風の感じが、家の中に一種別世界な空間になって、子どもだけでは決して入ることが許されない不思議な緊張感がある部屋になっていました。
そんな応接間はどこにいってしまったのでしょうか。
おそらく生活スタイルの変化と合理的に間取りを作ることを優先してきた結果、リビングを家族の憩いの場所だけにするのではなく、時には来客をもてなす場所として考えるようになり、それが応接間をどこかへやってしまったのではないかと。
また、広い家をつくる余裕がなくなり、家族生活を第一に考えるようになったため、無駄といわれる空間を造ることをしなくなったからと思われます。
二等辺三角形の観光ペナント、お土産だと思われるこけし、舶来品じゃないかと思われる人形、知性の誇張アイテム大百科事典(百科事典を売るセールスマンの功績の賜物)、ボウリング大会で取ったであろうトロフィー、地球儀、サイドボードに洋酒、家具調ステレオ、アンテナ付きテレビ、黒電話、マガジンラック。ちなみにステレオの上に飾られてるレコードはベンチャーズ。
そんな見せびらかすだけの品々が飾ってある不思議空間の応接間は、畳や床から身体を離すことに新しい生活様式を求めていたような、現在の生活様式の原点とも言われています。
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