日本独自の文化の極上の癒し空間「旅館」
やはりホテルよりも和式設備がある宿泊施設「旅館」の方が自分はくつろげるのですが…。ということで、ホテルに続き旅館についても調べてみました。
ホテルと旅館の違いで、前回の「旅館業法」以外には、
まず、ホテルの客室は寝室として設けられ、飲食を伴うレストランやバーなどが別にあり建物全体が機能分化しています。それぞれのみを利用するために訪れる客もいることから、ホテルの建物は館内も公共性をもち、客室から一歩廊下に出ればそこは“外”で道路と同じと考えられるそうです。また、従業員の職務も、特に大規模ホテルの場合など細かく分業体制がとられています。料金は1室いくらの室料制度が主で、人数は1室2人が標準となっています。
片や日本の伝統的旅館の客室は、寝室であると同時に食事の場にもなる複合的な機能をもちます。そして旅館の玄関を入るとそこは“内”とみなされることから、客室の鍵はさほど重視されなかったようです(現在は違いますが)。また、従業員では、仲居とよばれる客室係が客の食事の世話までするのが一般的です。料金は一人1泊2食付きの客に選択することを認めない料金制度が主で、人数は和室であるため、例えば1室を5人でも利用できます。
種類も立地によって市街地旅館と観光地旅館に分けられ、市街地旅館は普通旅館(ビジネスや修学旅行利用主体の駅前旅館など)と割烹旅館(市街地や近郊に立地し、宿泊と同時に会食・小宴会の客を対象とする料理旅館)に、観光地旅館は温泉旅館(著名な温泉地に立地し大浴場などもち、客に温泉気分を満喫させることを目的とする旅館)と観光旅館(風光明媚な名所旧跡の所在地に立地している旅館)に区別されるそうです。
つまり、海外でのホテルはお風呂や食事に重点を置いた宿泊施設は主流ではなく休むための場所としての認識が強く、旅館のような宿泊施設は世界的に珍しい制度で日本独自の文化のようです。
そんな旅館の起源は、大化改新で確立した駅伝制(7世紀後半)により、公用の官吏のために道に約30里ごとに設けられた宿泊施設の「駅家(うまや)」に始まります。
奈良時代になると、僧・行基(ぎょうき)が慈善事業(当時は草行露宿の厳しい旅でした)として交通路の要所に「布施(ふせ)屋」という下層旅行者への無料宿泊施設を設置し、各地に広がり「宿」という概念が定着しました。
営業を目的とする宿屋の発生は平安時代とされ、後期には熊野参詣が盛んに行われるようになり旅宿が発達しました。鎌倉時代には熊野詣でや伊勢詣ででさらに盛んになり、庶民のために宿坊・宿院などの休泊所が現れ、室町時代には燃料代(薪の値段)の木銭(きせん)を支払い携行食糧の炊事を自ら行う「木賃宿(きちんやど)」が出現しました。
余談で、その後「木賃宿」は単なる「安宿」をいうようになり、現代では日傭い労働者やバックパッカーが泊まる宿ということになったのでしょうが、「木賃」という文字の印象からか、ぼろぼろの木造の宿が連想され、今時はどんな安宿でも「ホテル」と称しているくらいで、「木賃宿」と呼ばれるにふさわしい宿屋を見つけるのは難しいかも。逆に木造おんぼろ宿は「古民家再生」などと称して改装され、油断してそんな宿に泊まろうものならバカ高い宿泊料を請求されるしまつです。
当時すでに地蔵院の門前町が形作られていた関宿(現・三重県亀山市関町)が、宿場町として整えられたのは天正年間(1573-91年)と考えられています。街道に面した旅籠の前面が描かれており、旅人を旅籠へ引き込む老婆や旅人と話す番頭、店先の桶で足を洗う旅人などが描かれています。
商業の発達や社寺参詣の流行により庶民の行旅も増え、江戸時代初期には木賃宿から発達した宿屋が食事を調理し客に提供する「旅籠(はたご)」が発生しました。
なお、「はた」は馬の餌のことで、旅籠は、馬の餌である“まぐさ”を入れた籠を門口にぶらさげてある家を指し、なので泊まれば馬の餌も出るし人も食事ができる宿を意味したとか。
江戸時代、太平の世になり東海道(東海道五十三次)や中山道(中山道六十九次)などの五街道を中心に宿駅制が全国統一されると、交通の往来が盛んになり宿駅は繁栄し、大名など貴人の旅宿「本陣」(本陣だけで宿泊できない場合は予備として「脇本陣」が設けられた)や旅籠・商人宿(行商人を泊める宿屋)・木賃宿が集まる宿場町が形成されました。
庶民用の旅籠は文化・文政期(1804-30年)に急速に発達し、宿泊と食事だけでなく沐浴も可能になり、一般の平旅籠の他に、飯盛(めしもり)女(宿場女郎)を置いた飯盛旅籠も出現しました。
ちなみに、現在の旅館にみる“一人1泊2食”料金制度は元禄時代(1688-1704年)から始ったようです。
赤坂宿(現・愛知県豊川市赤坂町)は飯盛女を多く抱えていた宿場町でした。宿屋の中庭にはソテツがあり、右の部屋では女性が鏡台に向かい、その奥には布団が積まれています。縁側に立つ風呂上がりの客、按摩、膳を運ぶ女性など、当時の旅籠の賑わいと風俗がわかる絵です。
石部宿(現・滋賀県湖南市)は、東海道を京から出発して1日目の宿泊地とすることが多く、多くの旅籠が軒を連ね繁盛していました。旅籠の1階から2階にかけての内部の様子が描かれています。それぞれの部屋で思い思いに過ごす宿泊客や旅籠で働く人々の姿が見られます。
しかし、こうした宿場町は明治以後、鉄道交通の発達により駅に繁華街が集中すると次第に寂れ、旅籠は旅館やホテルに変わっていきました。
幕末には武家諸侯の財政破綻から1870年(明治3年)本陣廃止令により廃止され、明治になると旅籠などの宿泊施設の呼称は「宿屋」になり、宿屋営業取締規則により宿屋は旅人宿・下宿・木賃宿の3種に分類されました。
「旅館」という語は、明治時代になってそれまでの宿泊施設よりもより高級な施設を意味する言葉として使われ始めました。ただし、この語が広く用いられるようになったのは昭和になってからだそうです。なお、木賃宿の名称は1931年(昭和6年)に廃止され「簡易旅館」となりました。
1948年(昭和23年)に「旅館業法」が制定、営業の種類は旅館営業・ホテル営業・簡易宿所営業・下宿営業の4種とされました。
1960年代後半以降は日本の旅館業は減少傾向が続いており、特に業務向け立地の旅館はビジネスホテルに代替され、また、旅館のホテル化が進んでいきました。ただし、ホテルが旅館を模倣する部分もあって、日本のホテルでは浴衣(ゆかた)などの寝巻を用意するのが普通になっています。
旅館の自分が抱いているイメージは、靴を脱いでスリッパや足袋で旅館の中を歩き回ることができたり、部屋に入ってすぐに浴衣に着替えてくつろげたり、座卓にはその旅館の銘菓が用意されお茶と共にほっと一息できたり、誰もいない大浴場で泳いじゃったり、浴衣で卓球して肌蹴たりしてすごい恰好になったり(一時期「温泉と言えば卓球」にはまった)、そして、暑苦しいもてなし(サービス)と食べきれないほどの料理を提供され、その宿泊料金の莫大さとあいまって、もう一晩滞在する気にはさせない極上の癒しの空間、でしょうか(笑。
-
前の記事
外国人専用に始まり訪日客に振り回された「ホテル」 2022.03.18
-
次の記事
青から黄色に変わった「はとバス」は、昭和な観光!? 2022.04.01