悪月と云われた5月5日の「端午の節句」
風薫る五月、現代では5月は一年のうちでも最も爽やかな気持ちの良い月の一つとされています。
5月といえば、5日の「こどもの日、端午(たんご)の節供」ですが、陰暦の5月が物忌みの「悪月(あくげつ)」と呼ばれ、さらに5日も「悪日」となっています。
一年のうちでも最も忌まわしい月とされていた日を、男の子の誕生と成長を祝うお祭りへとなったのか、成り立ちなども含め探ってみました。
日本では、5月というのは田植月にあたり、早乙女(さおとめ/田植え女)と呼ばれる若い女性たちは、「五月忌(さつきいみ)」といって田の神様のために巫女の資格で迎えるため仮小屋や神社などに籠って身の穢れを祓う習慣がありました。この5月5日は田の神様に対する女性の厄祓いのお祭りでした。
一方、古代中国には重五(ちょうご/5が重なる5月5日)という邪気祓いの行事があり、当時邪気を祓う作用があると考えられていた菖蒲(アヤメ科の花菖蒲ではないサトイモ科の植物)や蓬(よもぎ)、薬草などを野に出て摘んだり、蓬で作った人形を飾ったり、菖蒲酒を飲んだりして健康を祈りました。
これらの習慣が結びつき、日本でも飛鳥時代に端午の節句が生まれました。宮中では、陰暦の5月5日に薬猟(くすりがり)を行う風習が伝えられています。この行事は邪気をはらう意味で薬草を競い狩ることが行われ、『日本書紀』推古19年5月5日条(西暦611年6月20日)に記述が初めて見られます。
端午とは、端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。後に、十二支の寅を正月とする夏暦では5月は午の月にあたり、また午(ご)と五(ご)の音が同じことや陽数の重なりを重んじたことなどから、やがて5月5日に祭礼を行うようになったと伝えられます。
奈良時代に朝廷で始まり平安時代には「端午の節会(せちえ)」として宮中行事に変化します。これは、軒先に菖蒲や蓬をさげたり冠に菖蒲の葉を飾ったり薬玉(くすだま)を柱や簾にかけたりして邪気を払うもので、もともとは男の子とか無関係の行事でした。
端午の節句が今のように男の子の祭りになったのは、鎌倉時代以降、武士が政権を握り始めた武家社会になってからとされています。それまでの端午の節句における風習が次第に廃れていき、武家であることから、菖蒲と「尚武(しょうぶ/武道を重んずること)」をかけて「尚武の節句」となり、武家の間で盛んに祝うようになりました。
そして江戸時代になると初期に「五節句」という五つの祝日を公式設定し、盛んに行われるようになり民間にも広がっていきました。
子どもの無事な成長は、乳幼児死亡率が高かった当時、親にとっては心からの願い、江戸時代は「七歳までは神のうち」とされ、節目にあたる行事も重要な意味を持っていました。
こうして、もともと上流階級の行事でしたが江戸時代には一般化。錦絵にも、楽しそうな子どもの姿が見られます。
端午の節句に行われた男の子の遊び「菖蒲打ち(しょうぶうち)」に興じる子どもの中に、小さな鯉のぼり持ち、勝負を盛り上げる子の姿が描かれています。菖蒲打ちとは、菖蒲の葉を編んで縄状にし、地面にたたきつけて大きな音の出たものを勝ち、または切れたほうを負けという男の子の遊び。
五月幟(のぼり)の基部に飾られた菖蒲太刀は「あやめだち」「あやめがたな(菖蒲刀)」などともいわれ、もともとは菖蒲の葉を刀に見立てて男児が腰に差したものが、後世は木製の飾り物となりました。江戸時代、人々は菖蒲酒を飲み、粽(ちまき)または柏餅を供えて端午の節供を祝いました。
幟に描かれている真っ赤な人物は、道教系の「鍾馗(しょうき)」という神様で、魔除け・疱瘡除けの効験があるとされました。
おもちゃ絵は、絵を切り抜いてのり付けすると、幟や太刀や鯉のぼりなどができる仕組みで、子どもたちに人気がありました。
当初、端午の節句の飾りは幟(のぼり)だけだったようです。
古くから日本では、幟は神様を迎える祭礼の際に使われていましたが、武家が軍事用(敵味方を明確にするため)に使い始めてから重要な役目を持つようになります。江戸時代になると武家の家格・威厳を表す大事な意匠のひとつとなり、跡取りである男の子の成長を祝うために、家紋や鍾馗を染め抜いた幟や馬印などが立てられるようになったと云われています。
鯉のぼりが端午の節句飾りに登場したのは江戸時代後期で、当初は黒一色の小さいものだったようです。この絵は、一旒(りゅう)の真鯉が誇張され神田上水をまたぐほどの大きさです。鯉のモチーフが好まれ、大きくなった背景のひとつは、当時人気だった“黄河の上流、龍門の急流を越えた鯉が龍になり空に昇る”という龍門伝説にあやかってのこと。大空になびく鯉のぼりに立身出世の願いを託したのでしょう(「登竜門」ということわざの由来にもなっています)。なお、鯉のぼりを飾るのは江戸だけの風習だったんだとか。
そして、色鮮やかな錦鯉が養殖されるようになったのは江戸時代末期頃、現代のようなカラフルな鯉のぼりになり庶民が飾るようになったのは明治時代後期以降と言われています。
金太郎人形、錘馗(しょうき)の幟(のぼり)、鯉のぼりなどが見える端午の節句(節供)の絵です。武家や町方でも七歳以下の男子がいる家では、戸外に幟を立て冑(かぶと)人形を飾りました。また簡易に屋内に幟を飾ることや、紙で鯉の形を作り竹につけて立てることもこの頃は行われています。
左上に見える、今ではほとんど見かけなくなった薬玉(くすだま)と呼ばれるものは、じゃ香・沈香(じんこう)・丁字(ちょうじ)などの香料を錦の袋に入れて糸や造花で飾り、菖蒲やよもぎをあしらい五色の糸を長く結び作られたもの、これを柱や簾(すだれ)などにかけて邪気を払いました。
この薬玉、現代の式典やお祝いごとなどに用いる「くす玉」の由来となっています。
粽(ちまき)を端午の節句に用いるのは中国の故事によるもので、日本に伝わったのは古く、平安時代の文献に登場しています。江戸初期までは、端午の節句菓子は粽で、中期から柏餅が併用され、後期には関東では柏餅、関西では粽が主流となり現在に至るということのようです。理由は、古い柏の葉は新芽が出てきてから落ちるという性質から“家系が途絶えることなく一族が存続し子孫も繁栄する”という願いから、柏の葉で包んだ柏餅が供されるようになったとか。また、関西地方では気候の影響で柏の木が上手く育てられなかったことなどが挙げらています。
なお、この行事が「こどもの日」と制定されたのは戦後の1948年(昭和23年)のこと。今では「こどもの日」という名が一般的になっていますが、正式名称は「端午の節句」といいます。
「悪月」ですが、を調べてみると陰陽道(おんようどう・おんみょうどう)からきているようです。これによると、悪月は陰暦5月の異称で、5月を凶事の多い月とし、また、5月5日の出生を凶としたとあります。陰陽道が完成した時期は、周王朝(紀元前1046年頃-紀元前256年)の時代。
戦国時代の政治家・孟嘗君(もうしょうくん/不明-紀元前279年)が5月5日に生まれたことで「5月5日に生まれた子は門戸の高さにまで成長すると親を殺す」という言い伝えから父に殺されそうになったのは(『史記』では棄てるよう命じた)、ここからきていそうです。後に3つの国で宰相を務め、親も害さず、凄い出世を遂げますが。
日本では、平安後期に成立した『大鏡』で、語り手の翁、夏山重木は五月に生まれたばっかりに、銭十貫で母親に売られてしまっています。でも、180歳という超長生き老人だったわけで、「悪月」は迷信以外のなにものでもないような気がします。
もしかして、昔はこんな迷信のためにひどい目にあった子どもも多かったかもしれません。
旧暦五月は今の6月に当たり、雨が続く梅雨時で、カビや病原菌が繁殖し食中毒や病気になりやすいから、不衛生になりがちな旧暦五月に生まれた子は親にとって育てにくいということで、それがだんだんと「五月生まれの子は親に害をなす」「棄てろ」とエスカレートしたのではないか、五月の節句に子供の成長を祝うのも、「子供を育てにくいこんな季節によくぞ大きくなった」と祝い、「これからも無事、育ちますように」との願いをこめて、厄払いする意味があったのではと、この時期、清めや払いの行事を行ったのかもしれません。
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