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和室のアイデンティティを決定づける床材「畳」

和室のアイデンティティを決定づける床材「畳」

賃貸アパートでも分譲マンションでも、1室は畳の和室がないとどうも落ち着かないくて、小さい頃はハウスダストで小児喘息に悩まされたりしたけど、今でもやはり畳の和室にどっぷり浸かっていて…、住むのでしたら絶対に外せない畳の和室ですが、皆様はどうなのでしょう。
ということで、地味だけど日本の住宅に存在感がある畳のお話です。

「月百姿/名月や畳の上に松の影 其角」月岡芳年
「月百姿/名月や畳の上に松の影 其角」月岡芳年 画(1877年)出典:東京都立図書館

月百姿(つきのひゃくし)は月をテーマとした全100点揃物の錦絵。“名月や畳の上に松の影”は江戸時代前期の俳人・宝井其角(きかく)の句ですが、畳の上でくつろいでいる美しい女性を見てこの句を作ったもよう。畳に月明りで松の影が映る、風情があります。

畳の元は古くから見られ、奈良時代の日本最古の歴史書「古事記(712年)」に、皮畳(かわだたみ)、絹畳(きぬだたみ)、菅畳(すがたたみ)などの記述があります。これは、筵(むしろ)のような薄い敷物で何枚も重ねて座具や寝具として使っていたようです。

畳は古くは筵(むしろ)・茣蓙(ござ)・菰(こも)などの薄い敷物のすべてを、また積み重ねること意味し、使用しないときは畳んで部屋の隅に置いたことから、動詞である“たたむ”が名詞化して“たたみ”になったのが語源とされます。

源氏物語絵巻(一部)
「源氏物語絵巻(一部)」小野通女(?) 画(1594年/桃山時代)出典:メトロポリタン美術館

ちなみに現存する最古の畳は、奈良時代の第45代聖武天皇が使用していた、藁(わら/稲・麦の茎を干したもの)などを編んで作った敷物を3枚ほど重ねて、二つ折りにして6層にしたものにイグサ(藺草)の表を張り錦の縁をつけ、木製の台の上に乗せた「御床畳(ごしょうたたみ)」と言われています。

奈良時代には権威を表すものとして使用されるようになり、大嘗会(だいじょうえ/7世紀頃始まる)の際の正殿である悠基殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)の室では、神の寝床に畳を何枚も重ねるほか、神と天皇が座るところにも畳を敷いたそうです。

平安時代になると、貴族の住宅様式である寝殿造りの発展に伴い、畳床にイグサの表を取り付けた厚みのある畳(現代の畳に近いもの)が板敷きの間に数枚置かれるようになりました。この頃、庶民は筵や菰が一般化しました。
また、サイズの規格化もこの頃で、平安中期の法令集である「延喜式(えんぎしき)」には身分によって畳の大きさ、厚さ、畳縁の色・柄を定められていました。
平安末期には、狭い部屋では敷き詰めにするところも現れましたが、通常は部屋の周囲に1列だけ敷く追い回し敷きの、客をもてなす座布団のような座具だったようです。
畳のサイズについて記事はこちら→畳のサイズが違う訳

繧繝縁、大紋高麗縁、小紋高麗縁、紫縁、黄縁
左上から、繧繝縁、大紋高麗縁、小紋高麗縁、紫縁、黄縁

「延喜式」で定められた畳縁(たたみべり)の色と文様の違いです。各色を並べた繧繝縁(うんげんべり)は神仏と天皇・三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・上皇、雲と菊の大紋を織り又は染めだした大紋高麗(おおもんこうらいべり)は親王・摂関・大臣、小紋高麗縁(こもんこうらいべり)は公卿、紫縁は五位以上、黄縁は六位以下、無位の者は縁なしとされていました。現在では社寺の座敷や茶室の床の間などで大紋高麗縁を見ることができます。また御所や一部の神社で赤縁が用いられていますが、これは紫が変容したものとされ、紅絹(もみ)縁・緋曽代絹(ひそだいきぬ)縁とも呼ばれています

鎌倉から室町時代にかけて武士を中心に書院造の建築様式が完成されると、15世紀末頃から部屋全体に畳を敷く様式があらわれ、畳が建物の床材になり始めました。
これが“座敷”と呼ばれるようになり、茶道の発展に伴って数奇屋風書院造に変化していき、正座と共に普及していきました。茶室の炉の位置によって畳の敷き方が変わり、日本独特の正座が行われるようになったと言われています。
この茶道の隆盛で、安土桃山時代には町人の家にも徐々に畳が使われ始めたようです。

江戸時代には畳は建築において重要な要素とされ、城などの改修工事を司る畳奉公という役職が設けらるほどでした。
江戸中期にかけては商家や庶民の住宅にまで普及し、住宅の重要な床材として需要が大幅に高まり各藩の特産物として畳床が登場するまでになりました。

明治時代に入ると、上流階級では住宅の洋風化が進み、畳の使用が減少しましたが、中流階級以下の住宅ではさらに畳が普及しました。しかし、戦後は、畳を使った和室は一部屋だけという住宅が多く占めるようになりました。

「衣喰住之内家職幼絵解ノ図・畳を作る」歌川国輝
「衣喰住之内家職幼絵解ノ図・畳を作る」歌川国輝 画(1873年頃)出典:国立国会図書館

この錦絵は、幼年期における家庭教育、特に小学校へ入学する以前の教育の重要性を考慮して文部省が刊行したもので、家(住宅)を建てる場合の工事の様子を20の段階に分けて詳しく説明したものの中の1枚です。職人の紹介という意味もあったようです。蛇足ですが、他にも数理や力学に関する図も刊行されており、幼年期を対象にするには、かなり高度なものだったとか。

「大日本物産図会 備後国畳表ヲ製図」歌川広重
「大日本物産図会 備後国畳表ヲ製図」歌川広重/三代 画(1877年)出典:原書房

1877年(明治10年)8月、東京における第一回内国勧業博覧会に合わせて、各地の名産品とその生産工程が描かれ出版された全100点揃物の錦絵の1枚です。備後畳表(びんごたたみおもて/現・広島県福山市や尾道市で生産されている畳表)は、古くから備後表の名で知られ、宮中や幕府の献上表・御用表の指定銘柄にもなり、現代でも国宝級建築物の修理に指定される畳表の最高級ブランドとされます。


日本は、湿気が多く、夏暑く冬寒い気候だったので、畳は古くから住宅に不可欠の存在だったのでしょう。それは、畳には調湿・断熱効果や、他にも防音効果や空気清浄効果があるといわれています。また、天然素材であるイグサの香りはリラックス効果も高いようで、加えて程よい硬さとクッション性を兼ね備えているため非常に心地よく過ごすことが出来ます。
自然素材ゆえ虫が湧いてしまうことや湿度が高い環境だとカビが発生することもあるデメリットもありますが、低コストで作られるフローリングにカーペットより勝るような感じがします。

和室

畳とは、日本独特の床材で和室のアイデンティティを決定づける床材。海外の人々に紹介するには“タタミマット”と言いますが、マットとして直接寝ころぶには少々硬く、逆に通常の床材のように家具を常時設置するには軟らかすぎる中途半端な敷物です。その中途半端さが利点でもあって、畳を敷いた部屋は食事室にも寝室にも利用でき、狭い住宅の有効利用には適していました。少し前まではそのユーティリティプレーヤーぶりがあだとなり、部屋の機能をはっきりさせ、家具も増えた日本の住宅から姿を消しかけていましたが、しかし畳は再び床材として見直す動きが出てきています。

加えて畳は、昔からサイズがほぼ規格化されていたので、“4畳半(畳4枚と半分の広さ)”というだけで、日本人なら部屋の広さを想像でき、畳の敷いていない部屋でもそうした表現を用いて空間の感覚を共有していると思われます。例えば、4畳半といえば“むさい男のひとり暮らしの部屋”、6畳なら“家族のつましいダイニング、又はリッチな子ども部屋”、8畳なら“少しは余裕のある主寝室”、14畳なら“住宅会社やマンション業者が偉そうに掲げるリビングの広さ”などと、そのライフスタイルまでイメージできるという優れた特徴があります。つまり畳は「物差し(スケール)」としても今後も残る可能性のある素材かも。

出典:
出典:畳の歴史
出典:繧繝縁
出典:日本語を味わう辞典

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