「展望台」を見つけると登ってしまう⁈
「展望台」とは、景色を見渡すために作られた高い建物のことです。屋内・屋外のものがあり、施設によって入場料がかかる場合と無料の場合があり、望遠鏡や双眼鏡などが備えられていることもあります。また、山の中腹や頂上、岬などに設置された「見晴台」を指すこともあります。
東京タワーや通天閣などその都市を代表する塔や、主な超高層ビルの最上階には展望室があり、いつもたくさんの人々が行列を作ってエレベーターの順番待ちをしています。そして、だれもが、展望台や山の頂から見晴るかす風景を眺めて感動した経験があります。
展望台の事や、なぜヒトは高いところから展望することを好むのか、など気になり探ってみました。
望楼建築の始まり
1648年(慶安元年)、徳川家光により再建された「浅草寺五重塔(創建は942年)」は江戸庶民たちの人気を集めていましたが、1855年(安政2年)におきた安政の大地震で損傷を受けてしまいます。1886年(明治19年)になってようやく修繕されることになりますが、その際、修繕費用を集める目的で下足代1銭を徴収し、五重塔周囲に組んだ足場を上らせたところ評判になりました。
この人気に目をつけた香具師・寺田為吉は1887年(明治20年)、浅草六区に「富士山縦覧場」という高さ32.8m、裾周り273m、上りの長さ364mという巨大施設の木造富士山を開業します。この施設に展望台を設けて望遠鏡も設置したところ、開業翌年の元旦には初日の出を求めて1万5000人が来訪したともいう。なお、木戸銭は1銭5厘だったとか。
浅草の超人気スポットとなりましたが、1889年(明治22年)8月の暴風雨で骨組みだけの無残な姿となり翌90年には解体されてしまいました。
その浅草六区に1890年に建築されたのが高さ約52m、12階建ての西洋式高層建築物「凌雲閣(りょううんかく)」でした。「浅草十二階」とも呼ばれ、起案者は長岡の豪商・福原庄七、英国人技師のウィリアム・K・バルトンが設計、東京における高層建築物の先駆けとして建築されました。名称は“雲を凌ぐほど高い”ことから付けられたとか。
1~10階までは八角形の総レンガ造り、11・12階の展望室部分は木造でしたが望遠鏡が置かれ、また1~8階までは日本初の電動式エレベーター(設計は「東芝」の前身の一つ白熱舎)を設置、館内には世界各国の土産物売り場や休憩室がありました。
開業時の入場料は大人8銭で子ども・軍人は半額。11~12階という高所からの美しい眺望は人々を魅了し「日本のエッフェル塔だ(パリのエッフェル塔は前年1889年開業)」と多数の見物客で賑わいを見せました。
しかし、明治後期になると周辺にさまざまな娯楽施設が現われ、凌雲閣の入場者数は次第に減少していきます。その後1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で8階以上が崩壊、陸軍によって爆破解体され、わずか34年の寿命でこの世から消えました。
明治20年代から始まった望楼建築ブーム、大阪でも浅草の凌雲閣より1年早い建設で、西成郡北野村(現・大阪市北区)の和風庭園・有楽園内に9層楼(高さ39m)の「凌雲閣」が、この9楼凌雲閣に先立つ1888年(明治21年)には浪速区日本橋の遊園地・有宝地内には5階建て「眺望閣」が建てられ、「キタの九階」「ミナミの五階」と呼ばれ親しまれたようです。この眺望閣は六角柱状パノラマ式高塔で、日本で最初の西洋式高層建築ともいわれています。1904年(明治37年)に解体されますが、現在も通称としての地名は五階百貨店として残っています。
そして1912年(大正元年)、大阪・天王寺の第5回内国勧業博覧会跡地に展望塔「通天閣(初代)」がオープン、その後、火災の延焼で1956年(昭和31年)に建てた二代目に引き継がれます。
この二代目通天閣の設計者は、1950~60年代に「タワー六兄弟」と呼ばれる6つの塔の設計を手がけた“耐震構造の父”と評される内藤多仲(ないとうたちゅう)でした。
各タワーは竣工順に1954年(昭和29年)竣工の「名古屋テレビ塔」を長男、次男は1956年の「通天閣(二代目)」、三男が1956年の大分「別府タワー」、四男が1957年「さっぽろテレビ塔」、五男が1958年(昭和33年)「東京タワー」、六男が1964年(昭和39年)「博多ポートタワー」となります。戦後~高度経済成長期に日本各地に建てられたもので、いずれも各都市の中心部にあり展望台を有する等の共通点があります。
タワー六兄弟のなかでもっとも高さを誇るのが、1958年12月に竣工した約333mの「東京タワー」正式名称は「日本電波塔」です。
東京タワーとは、1958年の竣工以来、電波塔としての機能を果たしていましたが、その役割も2012年に完成した東京スカイツリーに譲り、アンティークな飾り物としての隠居生活に入りました。東京を一望でき、観光コースに組み入れるのに適した立地や、高度経済成長時代を懐かしむ人々の熱い支持を受け、今後もその価値が下がることはないものと思われ、日本で最も背の高い骨董品と言えるかもしれません。
その後、東京オリンピック目前の1964年9月に開業した東京・千代田区紀尾井町「ホテル・ニューオータニ」を皮切りに、展望ラウンジを有した高層ビルディングが次々と建てられていきました。
高いところから見下ろすこと
都市計画家・建築家のクリストファー・アレクサンダーは「小高い場所に登り、眼下に広がる自分の世界をじっくり眺めたいという気持ちは、人間の基本的な本能の1つのようである」と言っています。
さらに、生態・人類・霊長類学者の伊谷純一郎氏は野生のチンパンジーやニホンザルを観察し、「高いところに登って聴覚や嗅覚ではなく視覚によって獲物を探し、つまり生きていくために高いところに登って展望したいという欲求をもっている可能性を暗示する」と述べています。つまり、霊長類は高いところに登って展望することを好む性質を持っている可能性があり、私たちは高いところに登って展望することを快く感じるわけですが、その感覚が遺伝子レベルのものである可能性はかなり高いということのようです。
また、主に地上に近い場所で生活をしている私たちは、自分が普段位置する場所よりも高いところに、より良いもの・価値の高いものがあるというポジティブな思い込みがあるようです。
展望台は有料施設も多く、その場合、展望室から望む風景は有料の風景で、また、分譲マンションでは、通常、間取りが同じでも上層階ほど価格が高く、これは展望をその根拠のひとつとする場合が多々あります。
他にも、マイアミ大学の、“人は自分がいる場所の高さによって選択の内容が左右される”という研究で、「上層階にいる人ほど、意識のなかで“権力”をもっている感覚が強くなる傾向がある、そして、この感覚をもつことで、リスクのある選択をすることが多くなる」という研究結果が出たそうです。そして文章の実験では、1階の被験者と比べて上層階の人は、権力と結びついた文章をつくり出す可能性が高かったとか。高さが人の心を尊大にし、決断にも影響を与えるようです。
物理的な意味で“高いところから見下ろすこと”、俯瞰(ふかん)ですが、被写体に対して高い位置から見下ろすように撮影するのが俯瞰撮影、これは状況説明の他に、物事を小さく、矮小に見せる効果があり、その人物の地位・権力の低さや心理的な弱さを表現できるようです。
だから故に、「広い視野で物事を見ること」「客観的に物事の全体像を捉えること」自分自身や自分の置かれた状況を上から見て客観視することが大事なのでしょうね。
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