好きなところへ行く自由をもっていた昔の「旅」
行く時はウキウキ、そして行けば行ったでハラハラドキドキが起こり(自分だけかも)、帰ってきた時はクタクタ、でもまたワクワクしてくる旅。
旅行、最近行きたくてもいけないので、旅に関する話を書こうと思います。
旅とは、住んでいる所を離れて他所の土地を訪ねること、旅行を意味します(最近、「旅」と「旅行」では使い分けがされていることが多いですが同じこと)。また、自由を束縛された日常生活の苦しみから解放されるため、規定のルートと団体行動に束縛された楽しみを得るか、自己責任で自由に行動しなければならない苦しみを得るかのいずれかを選択し、遠方に出かけることをいいます、ちょっと違うかな(汗。
福井の九十九橋という水害対策のため木と石半々で作られた珍しい橋を描いた作品。橋の上を大勢の旅人らしい人々が行き交い、活気のある様子が伝わってきます。
古代においては狩猟採集して食糧獲得し生きることに必要な移動でした。縄文時代後期に大陸から稲作が伝来し、農耕が行われる時代になると集落定住の生活が一般化しますが、山野海浜の資源を求め歩く特殊職業者の猟人・山人・漁師などもかなりあり食糧採集のための旅を行っていました。
また、東国(畿内など)から防備にあたるために九州まで赴いた「防人(さきもり)」や、租庸調(そようちょう)などの税を国に納めるために都に運んだ「運脚(うんきゃく)」など、行政によって強制された旅もありました。
ちなみに、民俗学者の柳田國男氏は“旅の原型は租庸調を納めに行く道のり”と述べています。
やがて、8世紀頃がら神社や寺への参詣や、修験者、僧侶の修行など、信仰を動機とした旅が始まります。
平安末から鎌倉時代は熊野詣、室町時代以降は伊勢参りが盛んになり、また西国三十三所、四国八十八箇所巡礼などのお遍路もこの頃から行われるようになりました。
旅という言葉は、他人に食を求める「給べ(たべ)」のなまったものが語源と言われていて、当時の旅は辛苦に満ち、信仰に生き修行に身を砕く者だけの体験の場とさえ思われていました。
鎌倉中期の僧で時宗(じしゅう)の開祖である一遍が、同行3人を伴って伊予国を出立する絵。10歳のときに伊予(愛媛県)で出家して以来行脚(あんぎゃ)を続け、51歳で亡くなるまでの一生を旅に明け暮れました。その範囲は東は東北から南は九州までと日本各地に及びます。
10世紀頃までには宿泊や馬を供給するための宿駅が誕生していたようですが、宿泊費については15世紀には既に畿内で旅籠の定額制が確認され、16世紀には広域で定着していました。
江戸時代になると、五街道や脇街道などの街道や宿場、港が整備され、旅が貴族や武士だけでなく、一般民衆にも広まっていきます。
封建制下での他領移動は禁制でしたが社寺参拝は容認されていたので、信仰を大義名分に人々は伊勢参りや富士登山など観光の旅に出ます。庶民の長旅できる機会は、一生に1度かせいぜい2度と、とても限られ、一度旅に出たからにはできるだけ多くの場所を見て回ろうとしたようです。
他にも、定期的に江戸に上る「参勤交代」による仕事の旅、また、製品を作ったり修理したりした「鋳物師」や「木地師」、各地の顧客を訪ねて商品を売り歩いた「薬売り」、楽器の演奏や歌で門付けして回った芸能者など、旅なくしては仕事にならない職能民・芸能民もいました。
信仰の存在となっていた温泉も、旅の目的地として一般的になったのは江戸時代からです。
現在の団体旅行の原型ともいえる旅のスタイルもこの頃始まりました。信者で講(信仰集団)を作り、旅費を積み立てて、その代表が出掛けたり何年かに一度全員でお参りに出掛けたりしたようです。それぞれの寺社には、道案内や宿の世話をするガイド役「御師(おし・おんし)」と呼ばれる人がいて、旅人たちに参拝・宿泊などの世話をしました。
つまり、この時代では、レクリエーション(休養・娯楽)のための旅は湯治などの保養を除いてほとんど行われず、信仰巡拝などに見せ掛けて名所見物をするのが一般的だったようです。
なお、各都市の「名所図会」や諸国の旅行案内書(宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物などを記載したものも)・地図もたくさん発行されたりしましたが、これを見た幕末から明治期の駐日イギリス外交官アーネスト・サトウはその著書「一外交官の見た明治維新」の中で“日本人は大の旅行好きである”と述べています。
この汽車は、明治4年に輸入されたイギリス製の蒸気機関車と思われます。画面左は八ツ山下の陸橋で、蒸気機関車見物には絶好の場所です。陸橋下の建物が品川駅です。
鉄道に詳しい記事はこちら→今と変わらなかった明治の「鉄道」
明治に入り鉄道の開通や、汽船が利用できるようになると、一般の人でも長距離の移動が楽にできるようになりました。
近代的な観光旅行は、1912年(明治45年)に創立されたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現・JTB)が、海外からの観光客受け入れを目的としたツアーを企画して旅行案内業務を開始したことに始まります。
しかし、娯楽としての旅行は注目される気運にありましたが、富裕層・知識階級を除く庶民にはほとんど無縁でした。
高度経済成長期の所得の上昇に伴って、ようやくレクリエーションとしての大衆旅行時代が訪れます。契機となったのは、1964年の東京オリンピック、1970年に大阪で開催された東洋初の万国博覧会で、このときの移動~旅の体験が爆発的な旅行ブームをよび、庶民の生活に観光旅行を定着させるきっかけとなりました。
そして現代では、移動手段だけでなく旅の目的も多彩になり、それぞれの趣味やライフスタイル、予算に合わせて旅を楽しむ時代となっています。
余談ですが、16世紀後半の日本で布教活動をした宣教師ルイス・フロイスは、日本の女性が両親や夫にことわることもなく“好きなところへ行く自由をもっている”ことを記しています(ヨーロッパではそのような自由が認められていなかった)。また、夫婦の財産は“日本では各人が自分の分を所有している(ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有)”と云っていて、つまり、夫婦の財布は別々のものだったから女性(未婚女性も含め)が好き勝手に内緒で旅に出て行けたようです。
旅する女性の姿は浮世絵でも随所で発見することがます。これは、途中で危難にあわぬための用心棒として男性を一人頼み共として旅する二人の女性、バックに朝日の赤色で染まった雪の富士の絵です。この時代、父親や夫の知らない間に、女性たちはよく旅へ出て行ってしまいました。
というのも、明治の半ばあたりまでは日本は母系的な社会で、女性たちは男性への従属度が低く、服従する関係ではありませんでした。男性中心主義は、一部の武人という階級に、それも近世に入ってからあったようですが、儒教的な建前でしかなかったそうです。それがタテマエでなくなるのが、1898年(明治31年)に公布された明治民法からでした。
出典:『柳田國男全集』ちくま文庫、『ヨーロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス/岡田章雄訳、『女の民俗誌』宮本常一
男性中心主義といえば、世界各国の男女平等の度合いを示すランキングで日本は156カ国中120位(2021年3月31日現在)と先進国の中で最低水準です。
映画「もののけ姫」でアシタカの“いい村は女が元気だと聞いています”というセリフから、女性の自由に生きる権利も保障され、平等で生き生きと生活できる平和な村を想像させますが、現在の日本はどうなのでしょう。
その行き過ぎた男性中心主義的な社会が、少子高齢化など様々な行き詰まり問題が噴出しているのが今の日本の姿だと思ってしまいます。話がそれました(失礼)。
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