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周囲の人に自慢するのに最適な住居!?「別荘」とは

周囲の人に自慢するのに最適な住居!?「別荘」とは

つい最近、あの土地はどうなったのだろうと思い出しました。
多分バブル期に前にじいちゃんが買った栃木県の土地、そこに小屋でも建てて住居とするか別荘かセカンドハウスにしたかったのか不明で更地のまま逝ってしまい、現在は母が所有しています。何度か売却を試みたが売れず、固定資産税や管理費を虚しく払っている状態のような…。なので相続放棄するか、2023年4月に施行される「相続土地帰属制度」(費用は何十万か払うみたいでかなり阿漕)を利用するしかなさそうです。

ということで、貸別荘は何度か利用したことはありますが、別荘というものは日本にいつからあったかなど調べてみることにしました。

森の中に佇むコテージ
森の中に佇むコテージ

山荘・別邸というより手狭で簡易なコテージみたいな小屋も多く造られたバブル期。コテージ(cottage)は元は農民や労働者の住居として田舎に建設された小家屋などを表す言葉で、後に中流階級が別荘としてのコテージを建設するようになり、転じて避暑地のための貸別荘などを意味する言葉になったとか。

別荘の発祥は古代ローマと言われています。郊外の高地チボリや地中海のカプリ島に「Villa」と呼ばれる別荘が営まれたとされ、カプリ島は高級別荘地として約2000年の歴史があるようです。

日本では、古代の皇族・貴族の別荘を「別業(なりどころ/べつぎょう、業は屋敷の意)」と呼び(天皇の場合は「離宮」)、田地が付属する場合の「田荘(なりどころ)」や、「別墅(べつしよ)」「別庄(べつしよう)」などとも呼ばれ、別荘を建てる習俗はかなり古くからあったとされます。『日本書紀(720年)』には有力者の「別業」「田荘」などが記されているそうです。

平安時代初期から京都の宇治や嵐山・嵯峨野は多くの貴族たちの別荘地帯だったようです。9世紀末に光源氏のモデルともいわれる左大臣源融が別荘を構えた宇治の平等院の地は、998年に藤原道長の別荘「宇治殿」となり、後に藤原頼通が寺院に改めた「平等院」など。

室町時代には茶の湯を行うために足利義政が建てた別荘「銀閣寺」や足利義満の別荘「北山殿(金閣)」、安土桃山時代では豊臣秀吉の城郭風邸宅「聚楽第」、江戸時代は公家によって京都に造営された「桂離宮」や「修学院離宮」など、他にも、別荘的なものとして将軍が庭園内に造った建物や、江戸城から離れた郊外に置かれた大名の下屋敷は、避難用の別邸から遊興のための別荘となりました。

「曖依村荘」
「曖依村荘」出典:国立国会図書館

近代日本経済の基盤をつくった渋沢栄一の「曖依村(あいいそん)荘」とも呼ばれた飛鳥山邸(1945年焼失)は、1878年(明治11年)に別荘として建設され、1901年(明治34年)から亡くなる1931年(昭和6年)までは本邸として生活をしていました(東京都北区王子)。

「深川別邸」
「深川別邸」出典:国立国会図書館

三菱財閥創業者・岩崎家の深川別邸は、1889年(明治22年)庭園西側にイギリス建築家ジョサイア・コンドル設計によるで建てられた洋館(1923年焼失)。後に庭園の東半分を東京市に寄贈、1932年(昭和7年)に清澄庭園(東京都江東区清澄)として開園しました。

明治以降、大名屋敷の延長として近郊に国内外から賓客を迎えるための別荘が造られたり、また鉄道・自動車などの交通機関の発達とともに全国各地に別荘地が開かれましたが、贅を尽くしたものが多く、政治家・財閥・華族など限られた人々にしか利用できませんでした。

旧軽井沢郵便局
大正時代の旧軽井沢メインストリート中途に位置する旧軽井沢郵便局。出典:Flickr
「有栖川宮威仁親王の別邸」
「有栖川宮威仁親王の別邸」出典:国立国会図書館

有栖川宮威仁親王の別邸として1908年(明治41年)福島県猪苗代町に建てられた天鏡閣(てんきょうかく)は、その後、高松宮の所有となり戦後には福島県に払い下げられ、1979年に国の重要文化財に指定されました。

日本の近代的リゾート(避暑地・別荘地)は明治時代に布教や技術発展のために来日した宣教師やお雇い外国人によって開発の端緒がつけられました。
なかでも軽井沢は開拓が早く、1886年(明治19年)イギリス人宣教師A.ショーによって、すぐれた避暑地であることが紹介され夏季の別荘地として発展、これが別荘地の始まりとされます。
なお、日本人初の別荘は1893年(明治26年)軽井沢に旧海軍大佐・八田裕二郎が建てた「八田別荘」で、今でも建築当時の姿で保存されており、現存する最古の日本人別荘だとか。

箱根は、1886年(明治19年)ドイツ人医師ベルツの進言で皇太子(大正天皇)のために芦ノ湖に突き出た塔ヶ島高台に箱根離宮が建てられたことや、1895年(明治28年)宮ノ下に明治天皇の避暑のための御用邸が造営されたことを契機として別荘の設置が進みました。
他にも長野県野尻湖・栃木県那須・栃木県中禅寺湖・兵庫県六甲山など、明治時代に外国人によって避暑地・別荘地として開拓されました。

「滄浪閣」(大正・昭和期)
「滄浪閣」(大正・昭和期)。出典:大磯町郷土資料館

伊藤博文が1897年(明治30年)神奈川県大磯町に建てた別邸「滄浪閣(そうろうかく)」、その後、本籍も同町に移したことから本邸となりました。そして売却などされ、1954年(昭和29年)には一時的に大磯プリンスホテル別館として宿泊施設にもなったようです。

海浜保養型別荘は、1887年(明治20年)頃より皇族・政財界人の要人により造られ、とくに神奈川県大磯は歴代首相8人も別荘を設けるなど「別荘銀座」と呼ばれました。
他に関東地方では鎌倉(鎌倉山)・江の島・葉山・大磯など、近畿地方では北摂の宝塚・箕面や須磨・芦屋(六麓荘町)など、海だけでなく山も近くに臨めるような地に個人の余暇や接待や隠居所として設けられました。

「神谷伝兵衛の別荘」
「神谷伝兵衛の別荘」出典:Flickr

浅草・神谷バーや茨城・牛久シャトーの創設者である神谷伝兵衛が1918年(大正7年)千葉県稲毛に建てた来賓用の別荘。現在は国の登録有形文化財として「千葉市民ギャラリー・いなげ」の庭園に保存されています。稲毛は、1889年(明治21年)に千葉県で最初の海水浴場・稲毛海岸が開設されると、とくに明治中期から昭和初期にかけて保養地・避暑地として多くの別荘が建ち、著名人や文化人が訪れていたようです。

大正初期には交通網の発達とともに、荻窪・桜新町・国立・田園調布・成城といった近郊保養型別荘の「武蔵野ブーム」が起きました。当時は別荘地と住宅地の区別は明確にはなく、別荘適地は住宅地としてもよいとされていたようです。なので、同じ場所でも新興サラリーマン層はそこから東京に通勤し、華族や財閥系の富裕階級の場合、本宅は都心部に構え、武蔵野地は別荘として利用していたそうです。
ちなみに、世田谷区桜新町には「東京の軽井沢」というキャッチフレーズが付けられ、杉並区荻窪は昭和初期にかけて「西の鎌倉、東の荻窪」と称され東京近郊の憧れの別荘地だったとか。

昭和に入ると、大手資本が広大な山林・原野を取得し別荘地・分譲地の開発が急速に進んでいきました。戦後もこの流れが続き、別荘数が急増すると今までの上流階級や富裕層の持ち物という概念が破られ、中流階級へも波及していきました。加えて高度成長期を経て1980年代のバブル経済に至る間には、全国的な開発競争の中でリゾートマンションや投資・投機目的などの数多くの別荘地が造成され別荘建築ラッシュが起こりました。
しかしその後のバブル崩壊とデフレ経済長期化の過程で、地価の下落とともに衰退する別荘地や放置されて荒地・廃屋となったりした物件が増えて現在に至ります。

データをみると、総務省統計局が5年ごとに実施する住宅・土地統計調査2019年度では、別荘の所有率は普通世帯全体のわずか0.7%、年収2000万円以上の富裕層世帯においても別荘所有率は7.3%(2014年度)にとどまっています。

税負担があまりに重いからと考えられますが、最近では「別荘」に代わり「セカンドハウス」が主流になっているそうです。セカンドハウスとは、ひと月に一度1泊2日以上過ごす日常生活のために使っている住居で、不動産取得税・固定資産税・都市計画税の軽減措置が受けられる場合があるのだとか(自治体により違う)。

軽井沢タリアセン内「睡鳩荘」
軽井沢タリアセン内「睡鳩荘」出典:Wikipedia

実業家・朝吹常吉の別荘で1931年(昭和6年)竣工の長野県軽井沢「睡鳩荘(すいきゅうそう)」。スタジオジブリ映画『思い出のマーニー』に登場する屋敷のモデルとなったことでも知られています。

別荘とは、避暑や保養などの目的のために高原や海辺など自宅とは別の場所に所有する家(賃貸でも可)。
“週末は別荘で過ごします”などと、周囲の人に自慢するのに最適な住居でもあります。「別宅」も自宅とは別の場所に所有する家ですが、こちらは「愛人を囲うため」といったような、正味いやらしい目的で所有する場合が多いようです。

「荘」という漢字は草かんむりがついているように、本来「家」の意味はなかったそうです。「壮」は「壮年」「壮挙」「壮大」のように、立派である・盛んである・大きい、という意味があり、「荘」は草が盛んに生い茂ることから、村里や田舎を表す字だったようです。貴族が田舎に所有していた土地を意味する「荘園(しょうえん)」などはその例で、「別荘」は、まさに田舎に所有する別宅・別邸(「邸」は大きな屋敷を意味し、もう一つの自宅・別邸を持つ人は金持ちがほとんど)の的確な名称かもしれません。昭和時代、「ときわ荘」「あずま荘」などと「荘」の字を付けるアパートが多かったのは、「荘」に金持ちの大きな家というイメージがあったからではないかと思われます。しかし、最近は何たら荘などという野暮な名前のアパート(逆に今時そんな名前を付けるのは尖がったコンセプトマンションかもしれない)もほとんどなくなり、昭和時代のアパートは田舎のボロ屋の風情を漂わせています。
なお、“郊外のお屋敷”といったイメージから「別荘」は、裏社会で「刑務所」を表す隠語として用いられています。一般社会人の間でも「別荘」といえば「刑務所」のことだと“言われなくてもわかるよ”みたいな雰囲気が漂っているかもしれませんが。
そして現在、“別荘を1円であげます”てな広告が流行っています。(そもそも土地代を決める路線価なんて政治的思惑があってその数値は眉唾物だけどね)

出典:別荘
出典:「別荘」の真実を一体どれだけ知っていますか
出典:別荘/コトバンク
出典:戦前の武蔵野における別荘の立地とその成立背景に関する研究
出典:コテージとは
出典:セカンドハウスは資産になるか?
出典:投げ売りされる別荘が続出!「お金を払ってでも売りたい…」その理由とは?
出典:日本語を味わう辞典

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