暑い夏の風物詩となっちゃった「幽霊」について
暑くて眠れない夜、ふっと思い出した怖い話、時刻は案の定“丑三つ時”。
こうなればもう部屋の電気つけて本を読んだりスマホでニュース見たりと気を紛らわすしかありません。なぜかとというと、少なからず恐怖不思議体験をしている自分は怖がりで小心者、霊感のある知人からは付いてきちゃうから気を付けて、と言われるし(汗。
なので、そういう嫌な感じがする所とか行かないようにしているのですけどね。
ということで、江戸から明治時代の幽霊画も紹介しながら、夏の季語でもある「幽霊」についてのお話です。
ちなみに、“丑三つ時”とは、江戸時代まで使われていた時刻の単位である「丑(うし)の刻(こく)〈現代の1時~3時頃〉」を4分割したときの3番目の午前2時から2時30分の30分間のこと、真夜中の中の真夜中、超真夜中を表現する言葉です。この時間帯は、幽霊や妖怪たちの出勤時間にあたるため、ターミナルステーションである柳の下は通勤ラッシュのピークを迎えるとか(笑。
室町時代にすでに存在していたと言われていて、江戸時代に人気となった怪談噺『播州皿屋敷』、ここに登場するお菊の亡霊を描いた作品。枝垂柳(しだれやなぎ)の下に古い井戸を配した構図で、怖さより悲しみが強く、儚げで美しく描かれています。浮世絵で亡霊を描く場合は薄墨で摺るとか。
なお、四谷怪談・播州皿屋敷・牡丹燈籠の3話は「日本三大怪談」と呼ばれています。
幽霊とは、死後さまよっている霊魂がこの世に現す姿のこと。
日本では、人が死ぬとその肉体は朽ち果て、霊魂だけが死の穢れ(けがれ)を落して清められ個性を失い、祖霊(家族・親族の先祖の霊魂)という霊に融合同化するものと考えられてきました。ですが、非業の死をとげた者や現世に執着を残す者の霊は、このような祖霊信仰に乗ることができず、恨みや未練を訴えるために幽霊となって迷い出るものとさました。
このような日本の幽霊は、仏教の伝来以前から“居た”ようで、そもそもは古神道ないし神道の影響下では、成仏ではなく鎮魂(ちんこん)されていました。
古く霊魂のことを「たま」といい、肉体から遊離しようとする魂や肉体から遊離した魂を落ち着かせしずめる「鎮魂(たましずめ)」の儀礼を行っていました。それは遊離した「たま」はときに怨念を含む御霊(ごりょう/たたりを現わすみたま)や物の怪(もののけ)に変貌して生きている者に危害を加えると信じられていたからとされます。
ちなみに、現在では幽霊とおばけ(化物・ばけもの)は混同されていますが、幽霊は生前の姿または見覚えのある姿で出現してすぐに誰とわかるし、また特定の相手を選んで何処にでも出現するのに対し、化物は出現の場所や時間がほぼ一定し誰彼れかまわず出現するという、民俗学では幽霊と化物は別の存在ととらえているとか。
蛇足ですが、「物の怪」とは、人にとりついて祟(たた)りをする死霊・生き霊・妖怪(妖怪に関しては次回)などを漠然と示す語で、平安時代の文献に多用されています。
古く日本には、言葉は人の生き死にを左右するような力を有するという信仰があり、幽霊や化け物に対して“おまえはお菊の幽霊だな”とか“あなた、もしかして雪女ではありませんか”などと尋ねようものなら、たちまちのうちに捕り殺されると考えられていました。そこで、そんな災難を避けるために漠然と指し示す「もの(物・者)」という言葉を用いたのかも(笑。
なお「怪」と書くのは当て字で本来は「物の気」が正しいとか。
この幽霊は1861年に落語家の三遊亭圓朝が作った怪談話「怪談牡丹燈籠」のお露と伝えられています。まったく怖さがなく綺麗に描かれているのは、お露は恨みがあって出てくるのではなく、恋焦がれて出てきている幽霊だからとか。
源氏物語の主人公・光源氏の愛人であった六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が、正妻の葵上に嫉妬して生霊となった姿を描いています。藤の花の着物には、一面に蜘蛛の糸が張り巡らされていて、女の怨念が強く感じられます。
提灯に「当秋狂言大入叶 俗名お岩大評判」とあります。両手を前に出した、おなじみの幽霊スタイルの四谷怪談・お岩さんです。『東海道四谷怪談』は、四世・鶴屋南北が元禄時代に起きたとされる実話をもとに書いた江戸時代後期の歌舞伎狂言で、怪談物の代表作です。1825年に初演され大当たりし、名場面が盛んに錦絵に描かれ、役者が演じる幽霊がひとつの幽霊画のパターンになりました。
幽霊が初めて資料に登場するのは、死者が行く黄泉の国の存在が描かれている日本最古の歴史書「古事記(712年)」かもしれません。が、しかし平安時代初期の説話集「日本国現報善悪霊異記」で幽霊が悪霊として記されていて、文献に登場するのはこれが初めてのようです。
室町時代以降になると、能や歌舞伎のテーマとしても扱われるようになり、やがて怪談も語り継がれ始めました。江戸時代に入ると、以前から存在していた怪談は「怪談噺」として落語の演目となり庶民の間で大流行します。
「雨月物語」「牡丹燈籠」「四谷怪談」などの幽霊の登場する名作が生まれたのはこの頃、浮世絵や水墨画でもその姿が描かれるようになります。中でも江戸時代初期の画家・円山応挙の描いた幽霊画は有名となり、これが現在の“幽霊のイメージ”の典型と言われています。
左画、幽霊画といえば一番有名な「返魂香之図(はんごんこうのず)」、返魂香は故事にもとづくもので、焚くと煙の中に死者の姿が現れるお香のことです。幽霊画は供養のために描かれる場合が多く、絵師の名や印はないのが普通だとか。なお、一説には「返魂香之図」は、夢に現れた亡き妻の姿を描いたとも。
右画、骨に皮が張り付いたような幽霊が男の生首を咥えている図。頭皮は剥がれるように後退し、目はぎょろりと睨みを効かせている幽霊は何とも不気味です。また妙にリアルな生首から尾を引くような感じの煙は霊気なのでしょうか。
幽霊の姿かたちについては、元禄年間(1688-1704年)に刊行された「お伽はなし」では、みな二本足があったようですが、享保年間(1716-36年)のうちに下半身を朦朧とした姿で描くようになっており、さらに時代を経ると肘を曲げつつ手先を力なく垂れる姿で描くようになっていきました。こうように、江戸時代前期から中期を迎えるまでの間に、今日定型化されている日本の幽霊の造形が形成されていったと考えられています。
腰から下はすーっと消えていて、足の無い幽霊を初めて描いたのは円山応挙となっていますが、実際には応挙が生まれる60年前の1673年に京都で刊行された浄瑠璃本『花山院后諍(かざんのいん きさきあらそひ)』に、足の無い幽霊の挿絵が掲載されており、この時代の少なくとも京都にはすでに、“幽霊には足が無いもの”という概念があったとされます。
上記「返魂香之図」の幽霊画は、切れ長の目にふっくらした頬、白装束に黒髪をたらしていますが、痩せて骨と皮になった死者のようなイメージの幽霊は、もっと後の幕末から明治になって多くなるそうです。
また、額には三角の白い布(天冠/てんかん)を着け、白装束をまとっているオーソドックスな姿は、納棺時の死人の姿(生前の姿)で出現したとされ、江戸時代中期には描かれています。この日本型の幽霊は、演劇や文芸の影響が大きいと言われています。
『源氏物語』「夕顔」の巻を素材とした作品。夕顔が、女性(光源氏の最も早い恋人の一人の六条御息所とも)の生霊に憑り殺された屋敷を訪れた僧の前に、ユウガオの花の中から現れた夕顔の霊だそうです。最後には僧の供養によって成仏を遂げますが、この絵は夕顔の儚さを表したかったのでしょうか。
時刻に関しては、古くは物の怪の類は真夜中ではなく、夕暮れ時(逢魔が時(おうまがとき)=黄昏どき、昼と夜の境界)によく現れ、場所も町はずれの辻(町と荒野の境界)など「境界」を意味する領域で現れるとされていました。それが、怪談噺や落語などでいつしか(明確な起源は不明)幽霊が出る不気味な時間を表すのに「丑三つ時」という言葉が使われ始めたようです。この丑三つ時(午前2時から2時30分)は陰陽道において十二支で方角で表した時、鬼が出入りし集まる所の艮(うしとら・丑寅)の北東方角「鬼門」にあたり、これと関連付けられたとされます。
鬼門の詳しい記事はこちら→「鬼門」は迷信のひとつ、単なるこけおどし⁈
なお、よく聞く「草木も眠る丑三つ時」とは、草や木も眠るほどの超真夜中という意味で、幽霊や妖怪の出勤時間とされ、講談や落語などの語り芸において、お茶目な仲間達が登場する時間帯を表現する決まり文句となっています。
掛け軸の中から出てくるような幽霊図。幽霊図を鑑賞していたらいつの間にか…というような場面を想像します。表装も手前には焔(ほむら)がゆれ、上部には蝶が舞うなど凝っています。このように掛け軸から幽霊が出てくる表現は、幽霊画の世界では他でもみられるそうです。
暁斎の二番目の妻・登勢(とせ)が亡くなった時に描かれた追悼作品だそうです。行燈の横に立つおどろおどろしい女性は登勢でしょうか、顔は斜めに区切られて左上は肌が白く、右の半眼のその表情はなんだかとっても思慮深げです。怨霊になろうと変身する途中のようです。
ということで、幽霊とは、われわれの目に見える姿で近所をうろついている死者の魂のこと。
現れる事情や様態は様々で、死んだことに気づかず死に場所の近くでまごまごしているもの、住んでいた家が居心地がよかったので賃貸借契約が切れても居座っているもの、生きているときに親しく接していた人に用事(たいていは揉め事のクレーム)があるもの、などがあります。
日本では幽霊は、著名な日本画家が描いたおかげで、夏向けの薄い着物を着て脚が途中で消えている若い女性というイメージが定着し、その他の出演者は化け物や妖怪などと呼ばれ差別を受けているようです。
おまけに、7月26日は鶴屋南北・作の「東海道四谷怪談」が1825年(文政8年)7月26日に初公演されたことに因んで「幽霊の日」となっていて、この時期からイベントやテレビ番組などでも企画されることが多く、暑い夏の風物詩とされています。
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