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「雛人形」は、なぜ男女のペアなのでしょう?

「雛人形」は、なぜ男女のペアなのでしょう?

3月3日といえば、言わずと知れた「雛祭り」、女の子の節句というのが常識ですが、もともとは節句には男女の区別はなかったそうです。
ですが江戸幕府が、菖蒲を「尚武」にかけ勇ましい感じがするから男の子の節句に「端午の節句」へと決めたので、雅で優雅な雰囲気のある「上巳(じようし)の節句(雛祭り)」は女の子の節句となった、ようです。

ふと疑問、端午の節句の五月人形は鎧兜をまとった男の子ひとりなのに、雛祭りの雛人形はなぜ男女のペアなのでしょう。
ということで、成り立ちなども含め、探ってみました。

「雛人形」二代歌川国盛 画
「雛人形」二代歌川国盛 画(18-19世紀)雛段に内裏雛や随身(ずいじん)、五人囃(ばやし)や菱餅などが飾られています。出典:国立国会図書館

雛人形は、人に似せた“人形(ひとがた)”に人の身代わりとして不幸をしょわせる風習から生まれ、昔は、今でいう人形は“雛(ひひな・ひいな)”と呼ばれ、人間の代わりに棄てる、藁(わら)や草木・紙(縄文時代の土偶、弥生時代の人面土器、古墳時代の人物埴輪など)などで作った形代(かたしろ/神霊が依り憑き易いように形を整えた物、依り代の一種)を“人形”と呼んで区別していました。
この“人形”を肌にすりつけ、不幸や災難や穢れ(けがれ)を移し、水に流すなどして棄てる日本古来の「身代わり信仰・祓(はらえ)」に、平安時代に平安貴族子女が紙や布で簡単に作った人形や身の回りの道具類を模した玩具を使って遊ぶ“雛遊び(ひいな遊び・ひひな遊び)”と呼ばれる今の人形遊び・ままごと遊び、さらに大陸伝来の「上巳の祓(はらえ)」が加わって、3月3日に雛人形や桃の花を飾って祝う雛祭りとなりました。

「上巳の祓」は、3月(旧暦)の最初の巳(み)の日、禊(みそぎ)をして災いを払う古代の行事。それが平安時代、日本古来の“人形”の風習と結び付いて、3月の最初の巳の日に身の不幸を人形に移し、水に流す行事が行われるようになったようです。『源氏物語』でも、主人公の光源氏が、須磨で謹慎中の3月最初の巳の日、“ことごとしき人形”、おそらくは等身大の人形を舟に乗せて海にしています。この風習は姿を変えつつ「流し雛」として現在でも全国各地で行われています。

乳幼児死亡率は現代とは比較にならないほど高かった当時、子の成育を祈るため枕元には“人形”の形代を置き厄除けとし、1年の災いを春のひな流しで祓う、これが雛祭りの起源で、室町時代以降になると、朝廷では人形を流すという形は改められ、3月3日に人形を一夜、天皇の枕元に置いて穢れを移し、翌朝、寺につかわして祈祷を行わせるようになりました。

雛祭りが年中行事として普及したのは江戸時代。江戸時代初期(1630年頃)に宮廷や幕府で三月節供に雛人形にかかわる行事があった記録が現れ(初期に幕府が「五節句」という五つの祝日を公式設定)、やがて寛文年間(1661-73年)以降にようやく雛祭りの形が定着し、武家から裕福な町人、そして庶民へと広まり、都市部だけでなく地方でも雛祭りが行われるようになっていきました。

江戸の春に欠かせない名物となった雛祭り、雛人形や雛道具を扱う店が並ぶ雛市が立つようになりました。雛市で売られる雛人形も、江戸初期・寛永(1624-45年)頃に作られた「寛永雛」は小型でしたが、享保年間(1716-36年)になると、どんどん大きく豪華になり高さ40~70cmのものも登場、18世紀半ば以降になると、雛段を設けて人形や調度品を立体的に飾るようになります。この「享保雛」は、時の幕府から贅沢すぎるという理由で、しばしば取り締まりを受けるほどだったという。
ちなみに、「雛祭り」と呼ばれるようになったのは江戸時代中期頃といわれ、それ以前は「ひいな遊び」から変化した「ひな遊び」と呼ばれていたようです。なお「雛」とは、大きなものを小さくする、小さなかわいいものという意味だとか。

「画本東都遊 十軒店雛市」葛飾北斎 画
「画本東都遊 十軒店雛市」葛飾北斎 画(1802年)出典:ボストン美術館

一般庶民に浸透したのは江戸中期以降、現在の日本橋室町3丁目あたりの中央通りの両側にあった町・十軒店(じっけんだな)では春の雛祭りの前には雛市(ひないち)が立ち、大変な賑わいを見せていました。雛人形の他、雪洞(ぼんぼり)や屏風、白酒を入れる酒瓶や飾り物なども販売していたようです。雛市は人形町や尾張町、池之端、浅草茅町などが知られていました。

「子宝五節句遊 雛遊」鳥居清長 画
「子宝五節句遊 雛遊」鳥居清長 画(1795-96年)出典:ボストン美術館

正月7日の人日・3月3日の上巳・5月5日の端午・7月7日の七夕・9月9日の重陽という五節句を主題にした揃物の浮世絵、その内の雛祭りの様子。二段目に囃子人形を配した三段飾り雛段の前で楽しんでいる町家の子供たちを描いた絵。子どもが手に持っているのは桃の枝でしょうか。

「江戸名所百人美女 十軒店」三代歌川豊国 画
「江戸名所百人美女 十軒店」三代歌川豊国 画(1858年)出典:東京都立図書館

内裏雛(だいりびな)の前で雛人形の冠を手に持つ女性、駒絵(枠内の絵)には十軒店の風景を描いています。明和年間(1764-72年)頃、十軒店の人形師・原舟月が作ったのが「古今雛(こきんびな/目に玉眼を用いたのが特徴)」です。これが現代の雛人形につながったと言われています。

雛人形の飾り方にも変遷があり、江戸初期には雛壇はなく、敷物の上に一対の雛を並べて供物を飾る程度でしたが、江戸後期には雛壇も7、8段になり、雛道具も華美なものになりました。
1970年代には五人囃子(ごにんばやし)など15体の人形を並べる7段飾りが6~7割を占めましたが現在は数%、人形5体の3段飾りや男女のひな一対の「親王飾り」が主流になっています。

女雛の髪型の詳しい記事はこちら→平安時代から始まった「大垂髪」は変化していた

雛人形、内裏雛

こうしてみると、雛祭りはそのルーツからして人形が重要アイテムで、幼女の遊び道具としての人形と、形代としての“人形”と、雛人形が「遊び」と「信仰」の両面を持っていることがわかり、普通の人形と一線を画しているようです。

よく、「内裏雛」とは、天皇・皇后のお姿を模した一対のお雛様で、雛人形は皇室の慶事をイメージしてつくられている、とはいいますが、最初は祓に使う人形は自分と同じの、男児は男の人形、女児は女の人形を使っていました。それがなぜ男女のペアを「流し雛」として流したり、飾るようなことになったのでしょうか。

貴族たちの暮らしを模した“雛遊び(ままごと遊び)”が、やがてゴージャス化して今の雛人形に近づいていった、ということが一つにあると思います。

ですが他にも、東アジアと東南アジアに古くから見られる、未婚の死者を弔う際、その魂がまだこの世にあるうちに、絵や人形で見立てた異性と婚礼を挙げさせ夫婦としたのち死の世界に送り出す「冥婚(めいこん)・死後結婚」という習俗がありますが、これは孤独な魂が寂しさから遺族に取り憑くようになると恐れらたための儀式で、この思想が室町期に伝わった、とも考えられます。
現在も東北地方の一部で行われているそうですが、日本では、婚姻していない男性を供養して半人前の状態から一人前の状態にするという親心が動機になっていて、つまり、“結婚をもって一人前になる(人になる)”と見なす観念が日本には強いようです。
でも、そこには結婚して一人前という観念以上に、若くして死んでいった子を思う切ない親心があります。

雛人形の男と女、二人で一つになっているのは…、きっと日本人の優しい気持ちから、だと思います。
人間の不幸を一身に背負わされ棄てられる身代わりの“人形”だって独身のままでは哀れ過ぎる、夫婦であれば“人形”だってあの世で愛し合って心を慰めることもできるでしょう。“人形”に、不運の一切合切を背負わせた生身の人間のせめてもの償いの気持ちが、“人形”を夫婦一対として、やがて煌びやかな衣装をまとう華やかな雛人形を作ったのではないか、雛人形の上品で儚げな顔を見ていると、そんな気がしてなりません。

出典:形代
出典:雛祭り
出典:雛祭
出典:桃の節句の起源・由来
出典:冥婚

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