奇々怪々な昭和の「見世物小屋」がまだあった!?
来月11月は酉の市、酉の市というと、いつもは浅草の鷲神社(おおとりじんじゃ)ですが、数年前に友人に誘われて新宿の花園神社に行ったことがあります。ここで、いつもの熊手の出店のはじに、ド派手で禍々しいキワドイ演目の看板がかかった見世物小屋を見つけ、ちょっと引いてしまった記憶があります。実在の障害者の半生を描いた映画「エレファント・マン」の印象が強くてね。でも、日本では1960年と1970年(昭和45年)に障害者に対する法律が施行され、社会福祉が発達した現代はそのような事はありませんが。
ということで、怖くて観られず、でも気になった「見世物小屋」について探ってみました。
花屋敷は、浅草寺の境内に1853年(嘉永6年)植木職・森田六三郎が開いた草花の陳列場で、盆栽や菊人形を見せていました。明治中期から遊園地となり、動物園・回転木馬や、芝居の名場面を見せる等身大で写実的に作られた生き人形の見世物(昭和期まで存続)などで人気を集めました。現在は日本最古の遊園地「浅草花やしき」として存続しています。
見世物(みせもの)とは、寺社の境内や都市の盛り場で祭礼や縁日といった機会に、臨時に小屋掛けをし(見世物小屋)、珍しい芸能・珍品珍獣・からくりなどを見せて金銭をとる興行をいうようです。見世は、商品・物を“見せて売るところ”という意味の「見世棚(みせだな)」から来た言葉だと思われます。
日本の見世物の歴史は、芸能の「散楽(さんがく)」といわれるものから端を発しているとされます。
散楽の起源は西域とされ、奈良時代に日本に伝わり、軽業(かるわざ)・曲芸・奇術・幻術・物真似(ものまね)などを中心とする娯楽的な見世物芸で、乱舞(らっぷ)、俳優(わざおぎ)、百戯(ひゃくぎ)とも言われました。公的な雅楽に対して俗楽として扱われたようです。この「散楽図」には、弄玉、柳肩倒立、三童重立、弄剣などが描かれていて、主な芸は曲芸や手品でした。
平安時代には一般に普及し、中期には“さるがく”となまって呼ばれ、内容も日本化されて、猿楽、田楽(でんがく/田園の行事から発生した芸能)をはじめ様々な芸能の基盤となりました。
ちなみに、曲芸軽業の芸は田楽が演じて、奇術幻術人形遣いの類は漂泊の民であった傀儡師(傀儡子/くぐつし・かいらいし)が専業として猿楽から独立していき、この猿楽が鎌倉時代に独自の芸能文化として能や狂言に発展していきました。また、曲芸的な要素の一部は15世紀末から16世紀かけて京で起こった歌舞伎に、人形を使った諸芸は江戸時代初期に人形浄瑠璃(文楽)へと引き継がれました。
なお、上記の舞台芸能が発展すると、見世物・物売り(香具師)の芸・門付(かどづけ)芸(家々の門口を訪れて演じる芸能)など広く含めた諸々の大道の雑芸(ざつげい・ぞうげい)は、江戸時代以降はっきり区分けされて意識されるようになったそうです。
塩屋長次郎は放下師(ほうかし/手品師)として大坂で活動し、元禄時代に江戸に下って興行。興行の演目は、空中から魚を釣りあげる技、空の箱からたくさんの品物を出す手品などを披露したあと刀を呑む技を見せ、そして最後に馬を呑む術を見せ、人気を集めたようです。
興行形態をとった見世物として始まったのは室町時代で、勧進(かんじん/寺院を建立・修繕する際に寄付を募ること)の名目にした大道芸にはじまり、小屋掛けの興行は放下(ほうか/手品・曲芸)や蜘舞(くもまい/綱渡り・竿登り・とんぼ返りなどの軽業)などが行われましたが、見世物を担う香具師(やし/露天商の一種、的屋[てきや]とも)たちが頭(かしら)の差配を受けながら盛り場から盛り場へと移動していく本格的な興行や、“見世物”という名称が用いられたのは江戸時代に入ってからでした。
そうした盛り場では京都の四条河原が古く、他にも京都の北野神社や新京極、大坂の梅田・千日前・道頓堀・難波、名古屋は大須、江戸の両国・上野山下広小路・浅草奥山などで盛んに興行されました。
この見世物と一体化したような非常に賑やかで活気に満ちている盛り場が、民衆の猥雑な欲望を蓄えたハレ(非日常)の場となり、そこでは生き生きと躍動する肉体芸、異形(フリークス)や珍獣奇鳥のショー・からくりや生き人形などの細工ものを核として、下記のような雑芸とよぶほかない視覚的大衆芸能の驚嘆すべきレパートリーが繰り広げられました。
なお、見世物で客の呼び込みに用いる啖呵(たんか)は、“代は見てのお帰り(代金は見て気に入ったら帰りに払って下さい、の意)”といった口上(こうじょう)があり、一種の風物詩として見世物小屋が盛んだった時代を描くドラマなどで聞かれます。つまり、迷っている客をまずは中に入れようと代金後払い(あとぼり、と言った)でした。
他にも、芝居・軽業・人形芝居・盲目の相撲・火食(ひく)い坊主・ろくろ首・独楽まわし・力持・居合抜・菊細工・大道講釈・のぞきからくり等々、実に300種以上にものぼると云われています。なお、花鳥茶屋から「動物園」が、生人形から「お化け屋敷」が誕生していきます。
京都や大坂で軽業をド派手なエンタメショーに仕上げ人気となり、一世を風靡した早竹虎吉、1867年(慶応3年)には30人の一座を率いて渡米し、ニューヨークやサンフランシスコでの興行も果たしています。当時、幕末の軽業師の技術は世界的に見てもトップレベルだったといわれ、虎吉以外にも多くの軽業師・曲芸師たちが海外進出を果たしました。
日本では軽業・足芸・曲馬など個々の見世物がありましたが、1886年(明治19年)イタリア人チャリネ(チャリネ大曲馬団)が東京秋葉原で興行して評判になり、以後、西欧風サーカス的な興行形態が整えられていき、有田・木下・シバタなどの大サーカスも組織されました。なお大正期まで曲馬団といわれ、昭和初期にサーカスの呼称が定着したとか。
1891年(明治24年)条例により、浅草寺周辺の盛り場の見世物小屋を浅草公園六区(浅草奥山のすぐ隣りの地区、一区から六区まであった)の一箇所にまとめられ歓楽街を形成しました(地方では巡業形態が続いていました)。写真では、活動写真大勝館「新皿屋敷」「難破船救助の実」の題目が見られ、興行の旗や幟・看板が林立し、見物客で賑わっている様子がうかがえます。
明治になると、浅草公園六区や招魂社(現・靖国神社)境内がこうした場となり、西洋伝来の曲馬(きょくば/サーカス)・写真・迷路・映画・パノラマなどが人気になりました。
さらに美術館・動物園・秘宝館(性風俗)・パフォーマーといった演目も独立していき、現在に近い形態の見世物小屋は昭和30年頃まで社寺のお祭や縁日に小規模な露店と共に盛んに興行されていましたが、テレビの普及や映画が見世物的世界を取って代わり、見世物小屋は衰退していきました。
かつての盛り場に氾濫していた肉体的猥雑さ満載の民衆文化が、テクノロジーによる見る快楽の管理の前に姿を消していき、近代になるにつれて世界各地の珍しいものを集めたり巨大な機械を使った興行などが客を集め、万国博や科学万博などに代表される新しい形態が見世物としての位置を占めていったような感じがします。
江戸後期には全国で300軒あったとされる見世物小屋は、現在1社(大寅興行社)のみが営業しているとかで、今年も花園神社で行われる酉の市で興行を観ることができるそうです。
演目を調べたら「巨大な寄生虫を体に飼う男」「逃げ遅れた病気老人」「メコン川流域の首狩族」「七つの乳を持つ女」「狂ったOL」などなど奇々怪々な名前が踊っていますが、洒落で落(おち)をつける茶番劇みたいなものだろうか…、いつかこの見世物小屋という独特の世界観を怖いけど観てみたいと思いました。
余談ですが、「茶番劇(茶番とも)」の「茶番」は“お茶当番”のことで、江戸時代に歌舞伎の楽屋でお茶のサービスをしていた下っ端の役者たちが、隠し芸や即興芝居などを披露して内わで楽しんでいた催しを「茶番」「茶番狂言」と言ったようです。そこから、庶民が町内の人々を集めて打った素人芝居についても「茶番」と言うようになり、現在ではフィクションであることがすぐわかってしまうイベントについて、素人芝居のようにヘタな芝居(道化芝居でもあります)をしているという意味で「茶番」「茶番劇」と呼ぶとか。
なお、茶番劇における有名な演目は「みえみえ」「わざとらしさ」「やらせ」「出来レース」などありますが、“今回の総裁選はとんだ茶番劇だ”などと言う場合、その総裁選では、選挙戦の途中で寝返るヤツが出て、劣勢だった人物が逆転し、総裁になるというような筋書きがとっくの昔に決まっているのに、みんなが知らないようなふりをして結果が出ると“未曾有の出来事だ”だの“驚天動地の結末だ”などと白々しいことを口々に言うという、そんな「みえみえ」な「わざとらしさ」満載の「やらせ」としか言いようがない「出来レース」のありさまこそ、茶番劇なのかも。
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