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かつて鞄潰しもあった手提げ「学生鞄」

かつて鞄潰しもあった手提げ「学生鞄」

最近ではナイロン製のスクールバッグが多いようですが、あの黒い革の学生鞄、あまり見なくなりましたね。
まだ一部の私立中学高校では、校章が型押しされている黒革の学生鞄(茶色等の場合も有)を使っているようですが、そんな学生鞄はいつ頃からあったのかなど気になり調べてみました。

学生鞄とは、日本の学生が通学時に学用品などを持ち運ぶための鞄のことをいい、概ね“学生向けに作られた鞄”あるいは“学生しか使わないような鞄”といった意味あいもあり、通学鞄、スクールバッグ(スクバ)、学バン、制バンなどと呼称されることもあります。

「舌切雀」三島蕉窓 画
「舌切雀」三島蕉窓 画(19世紀)出典:artelino-Japanese Prints。葛籠が登場する昔話といえば「舌切りスズメ」が有名です。植物のつるを編んで作る籠は縄文時代から作られ、運搬に利用されていました。平安時代に入り竹を加工する技術が確立されると、幅を一定に揃えやすい特徴から衣装を保管する箱として、四角く作られるようになりました。

日本では古来から荷物の運搬や物を携行する際に、葛籠(つづら)、柳や竹行李(こうり)、鎧櫃(よろいびつ)、箱笈(はこおい/修験者が仏具・経本などを入れ背負う箱)、胴乱(どうらん)などが使用されてきました。

「大日本物産図会 但馬国 柳行李製図」三代歌川広重 画
「大日本物産図会 但馬国 柳行李製図」三代歌川広重 画(1877年)出典:ひょうご歴史の道。衣類や身の回りの品の収納あるいは旅行用の荷物入れ、飛脚が郵便物を入れたり薬品類の行商になどに用いられ、竹や柳や籐などを編んでつくられた葛籠(つづら)の一種で、昭和初期まで使われていたようです。柳行李の産地として但馬国(現・兵庫県豊岡市など)が有名でした。

携帯用入れ物の鞄としは、火打ち袋から出発して煙草・銭・薬入れなどに発展し、江戸時代初期に鉄砲の弾丸入れとして用いられたのが始りの腰に下げる長方形の革製携帯具「胴乱」が生まれ、これが鞄の発祥と考えられています。
火打ち袋から誕生した財布の詳しい記事はこちら→携帯するようになった鼻紙袋が「財布」!?

「蔵の壁 修理」歌川豊国 画
「蔵の壁 修理」歌川豊国 画(1800年代)出典:ボストン美術館。左奥には漆喰を捏ねている左官職人でしょうか、腰には胴乱のような提げている物入れ(袋物)がみえます。手前の家紋入り箱は葛籠だと思われます。
胴乱
胴乱。出典:画像

胴乱の寸法は21~24cm位のものが多かったようで、これが大形化してなんでも入れられる携行具は大胴乱と呼ばれました。
この胴乱をもとに、革具職人や馬具師、文庫職人等が明治維新前後に「鞄」の製作を産業としてスタート、そして「鞄」漢字の常用は1881年(明治14年)頃と言われています。
きっかけは、外国人が修理に持ち込んだものを模倣して作ったことで、それまで日本に鞄の概念はありませんでした。

1872年(明治5年)明治政府は日本初の近代学校制度、「学制」を発布します。この学制発布後、学生は登下校時に学用品を携行する必要が生じました。
ごく少数の恵まれた子息子女では通学鞄として「背嚢(はいのう/帝国陸軍にも使用されたリュックサックのようなもの)」が導入されました。これは、オランダ語では「ランセル」と呼び、それが訛って日本では「ランドセル」と呼ばれるようになり、1890年(明治23年)学習院で背嚢を“黒革”にすることを規定、この学習院型の革製ランドセルが都市部を中心に広まっていきました。
一方、地方では学用品を「風呂敷」に包み通学するのが一般的でした。

そして、日清戦争(1894-95年)で軍用として考案されたのが布製の「雑嚢(ざつのう)」と呼ばれる肩掛け鞄、1905年(明治38年)に日露戦争が終結するとその高揚気分から学生間に流行し始めます。この頃から学生鞄の製作が広まりますが、多くは雑嚢をもとにした帆布や麻製の肩掛けタイプで、流行は大正時代に入っても続きました。
なお、昭和に入り、中学校の通学用鞄として主に用いられた「白鞄」「ズック(帆布製)鞄」はこの雑嚢をベースにしているとか。

大正時代末になると、書類入れとしてビジネス用に考案された「抱鞄(かかえかばん)」をベースに学生向けに革製で作られた一本持ち手の「手提げ鞄(学生鞄)」が登場します。
1934年(昭和9年)には、東京の大手デパートが女学生向けに学生手提げ鞄を新型として発売していて、男子学生や会社員にも浸透していきます。
1950年代半ばになると、まだ肩掛けカバンも多く混在していましたが、主流は革製の手提げ鞄となっていき、戦後の急速な経済発展とともに一気に全国に広まっていきました。
なお、この学生鞄は医師の診察にも使われていたようです。

ランドセルも学生鞄も天然皮革がメインでしたが、1965年(昭和40年)世界に先駆け倉敷レーヨン(現・クラレ)が人工皮革「クラリーノ」の販売を開始、軽量なことから学生鞄市場で人気が出て1970年代後半には天然皮革に代わり人工皮革の学生鞄が主流となっていきました。
鞄の大きさやマチの太さ、錠前の形などの細部はメーカーによって異なりますが、男女を問わず黒色が一般的で(濃紺色や茶色も有り)、学校によって校章入りの指定鞄もありました。

黒い革の学生鞄
学生鞄(手提げ鞄)。出典:Wikipedia
改造した学生鞄
芯抜きして薄く潰し、持ち手に赤テープを巻いて改造した学生鞄。出典:Wikipedia

1970-80年代、高校生を中心に頑丈に出来た学生鞄を意図的に改造する鞄潰し等が流行しました。
威勢のいいツッパリ兄ちゃん、ツッパリねえちゃんが、鞄をぺちゃんこに潰したり鉄板を仕込んだり、ケンとメリーのステッカーとかチーム・族のステッカーを貼ったり、持ち手にビニールテープを巻いて“喧嘩売ります”とか“喧嘩買います”なんて物騒なアピールをしたりと、このような鞄は「つぶし・ぺちゃんこカバン・ペチャカバン」と呼ばれ、いわゆる当時の不良の学生鞄は男子生徒の変形学生服や女子生徒のスケバンなどと共に社会現象になりました。

加えて、「マジソンバッグ」という“MADISON SQUARE GARDEN”のロゴと星条旗またはワシのマークが入ったナイロン製バックもこの頃流行りました。台東区にあるエース株式会社が、1960年代のアイビールック全盛時代を意識し1968年から1978年にかけて製造・販売したスポーツバッグで、類似品も含め約2000万個も売れ大ヒット商品になりました。当時は指定バッグではないかと思われるほどたくさんの学生に使われていました。現在も復刻版として購入できるようです。

しかし昭和が終わり、1990年代に入ると全国の私立・公立学校では、変形学生服の対策等のために制服をブレザー化し、同様に生徒が行う鞄潰し等の改造への対抗などのためにナイロン製ボストンバッグ型鞄など独自のバッグを指定する学校が増加、なかには通学鞄を完全自由化する学校もありました。
こうして、手提げ鞄を脱却する動きとともにヤンキー(不良少年)的なファッション文化の衰退から、鞄潰しも1990年代後半にほぼ絶滅したようです。

最近では、革製の手提げ鞄を指定している学校は一部の地域に限られ衰退傾向にあります。代わって自由化が進み、3way型バッグ、デイパック、トートバッグ、メッセンジャーバッグ、リュックサックなど、学生鞄以外の普段の鞄を使用するケースが多くなっています。

出典:かばんの歴史
出典:学生鞄

黒い革の学生鞄

学生鞄というと、中学生の頃、教科書をいっぱい詰め込んで重くなった鞄を持ち、近くの学区から外れた遠い学校まで自転車通学も許されず、テクテクと徒歩で通った大変な思い出があります。でもおかげで、60kgあったおデブな体型が確か13~15kg減の脂肪が削がれた体と体力が付いたから、鞄のおかげでもないけれど、よかったかも。
それから、やはりこの学生鞄型カバンが好きで、社会人になってから2度ほど本革製2way手提げ鞄を購入、1つは今でも持っています。ポケットがたくさんあり機能性に優れ丈夫、ちゃんとした感もあるし、少々重いのが難ありですが、ビジネスバックではないオシャレな感じがよいのですよね。

堅牢で飽きの来ない長く使える学生鞄型カバン、テレワークで外出も少ないかもしれませんが一つ持っていると便利かもしれません。

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