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身も心も軽くなる「お風呂」は非日常から!?

身も心も軽くなる「お風呂」は非日常から!?

火山国である日本列島には、全国様々な場所に温泉が湧き出ていることも理由でしょうが、日本人は世界に類を見ないほどのお風呂好きと言われます。
お風呂というと、ある合宿に付き添いで参加し宴会後に酔っぱらって風呂に行ったら男湯(時間で入れ替え制だった)で“すっぽんぽん”を見られてしまった、とか露天風呂に入ったら混浴だった(もちろんタオル巻いていない)、とか色々とやらかした思い出が多々あります(汗。
実は長湯もサウナも銭湯も苦手なのですが、お風呂に入るという習慣はいつから始まったか、とかなぜ好きなのか、など気になり調べてみました。

永観堂(禅林寺)の浴室
永観堂(禅林寺)の浴室。出典:Wikipedia

平安時代に衆生救度(しゅじょうさいど)として、寺内に病人の浴室として「温室(うんしつ/蒸し風呂形式)」を設け、入浴治療を行っていました。

相国寺の浴室(宣明)
相国寺の浴室(宣明)。出典:Wikipedia

1400年頃の創建、現在のものは1596年(慶長4年)の再建。薬草などを入れた湯を沸かし蒸気浴をしながら柄杓で湯をかけて入浴を行ったとされます。

古いものでは縄文時代の遺跡から温泉が利用されていた痕跡が見つかっていて、記録としては712年の「古事記」や720年の「日本書紀」に温泉についての記載があり、733年の「出雲國風土記」では現在の玉造温泉を神湯と呼んで湯治を目的として利用されていたようです。

また、古来から神道では、神を礼拝・祈願する場合に川や滝で沐浴(もくよく)をして心身を清める風習があり、この禊(みそぎ)の慣習は、宮中などにおける御湯殿(おゆどの)の儀というような儀礼的な行事の一つとなっていきました。そして6世紀の仏教の伝来とともに、寺院には湯堂・浴堂とよばれる沐浴のための施設が作られました。
当時の入浴は湯につかるわけではなく、薬草などを入れた湯を沸かしその蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式でした。

風呂とは、穴倉や岩屋の中に蒸気を充満させて身体を温めて垢を落とす蒸し風呂からの室(むろ)から転じた言葉で、元は湯に入ることと区別されていました。
なお、茶の湯に用いられる風炉から生じた語の火をたいて湯を沸かすもの、という意味からとする説もあります。

蒸し風呂は初めからだを清潔にするためよりも“七病を除き、七福が得られる”という目的が強く、京都の寺院などで、貧しい人々や病人や浴堂のない庶民にも入浴を施したことから、お風呂に入るという習慣が始まったとされ、平安時代になると宗教的意味が薄れ、衛生面や遊興面での色彩が強くなったと考えられています。

「風呂場 木桶風呂」歌川豊国 画
「風呂場 木桶風呂(一部)」歌川豊国 画(18世紀)出典:ボストン美術館

たっぷりの湯に首までつかる「据え風呂」ができたのは、慶長年間(1596-1615年)の末ころ。据え風呂は蒸気や薬湯ではなく、井戸水を沸かして入れるので「水(すい)風呂」とも呼ばれました。湯舟は湯量が少なく済むよう、人一人が入れるほどの木桶を利用。しかし、内風呂があるのは上流階層であった公家や武家、遊郭のような特別な場所に限られていたようです。なので、ほとんど家は、水が貴重で燃料の薪も高価だったため内風呂はありませんでした。加えて、火事の多かった江戸の防災の点から庶民の家で内風呂を持つことは基本的に禁止されていたとか。

宗教的なものではなく、純粋な公衆浴場「銭湯」が江戸に初めて登場したのは1591年(天正19年)、江戸城内の銭瓶橋(現在の大手町付近に存在した橋)の近くに伊勢与一という者が蒸気浴(蒸し風呂)の形式で開業しました。しかし京都、大坂などではそれ以前から銭湯らしきものがあり(室町時代末期の「洛中洛外図屏風」には当時の銭湯(風呂屋)が描かれてる)その起源は鎌倉時代中期ごろまでさかのぼると云われています。

その後江戸では、初期に、浴室のなかにある小さめの湯船に膝より下を浸し、上半身は蒸気を浴びるために戸で閉め切るという、湯浴と蒸気浴の中間のような入浴法で入る戸棚風呂が登場し、さらにその後、湯船の手前に細工を施した柘榴口(ざくろぐち)という入り口が設けられた風呂が出てきました。

浴槽にお湯を張り、そこに体を浸けるというスタイルがいつ頃発生したかは不明ですが、古くから行われていた桶に水を入れて体を洗う行水(ぎょうずい/仏教用語、神事・仏事を行う際に身を洗い清めること)と蒸し風呂が融合してできたと考えられています。また、江戸時代中期以降、湯の中にからだを入れる湯屋・湯殿と風呂場との区別がなくなっていきました。

「女湯」鳥居清長 画
「女湯」鳥居清長 画(1787年頃)出典:ボストン美術館

畳の脱衣所、竹の水きり場、板の洗い場があり、現代の石鹸に相当する糠(ぬか)袋や、鶯(うぐいす)の糞や豆の粉などを入れ工夫をこらした袋の「もみじ袋」や「留桶」などが描かれ、波と千鳥の描かれた鳥居形の柘榴口(ざくろぐち)をくぐって風呂場に入る様子が描かれています。しかしこの当時の風呂場は、内部は昼間でも薄暗く、そして湯気もうもうで人の顔さえよく見えなかったそうです。
左上の小窓から見える男性は三助(さんすけ)と呼ばれる銭湯の雇人で、客の背中を糠袋でこすり湯で洗い流し、軽くマッサージを行う仕事をしていました。

賢愚湊銭湯新話3巻
「賢愚湊銭湯新話3巻」山東京伝 著・歌川豊国 画(1802年)出典:国立国会図書館

風呂場は、かがんで入っていく石榴口(ざくろぐち)と呼ばれる入り口の奥にありました。この石榴口は、湯が冷めないように、また蒸気が逃げないようにするため鴨居を低く工夫されていました。江戸は鳥居形がほとんどで、一方大阪は「賢愚湊銭湯新話」のような破風形が多かったそうです。
石榴口と呼ばれたのは、「屈み入る」と「鏡鋳る」をかけた洒落だとか。「鏡鋳る」というのは鏡を磨くこと、その際に用いるのがザクロの実で、ここから屈んで入る所を石榴口と呼びはじめたそうです。

銭湯は、江戸では「湯屋(ゆや・ゆうや)」と呼ばれ、京や大坂など上方では「風呂屋」と呼ばれていました。文化年間(1804-18年)には市中に600軒を数えたと記録に残るほど江戸っ子にとってなくてはならない存在となっていたようです。当時の銭湯は、おおむね朝五つ(午前8時頃)から夜五つ(午後8時頃)まで営業していて、男女別に浴槽を設定することは経営的に困難で老若男女が混浴でした。なお、混浴は「入込湯(いりこみゆ)」と呼ばれていました。

現代人からみれば、男女が入り交じって入浴したりして、けしからぬ事態には発展しなかったのかと憂慮したりしますが、ちゃんとそれに応じた事件、事故は起こっていたらしい(起こっても、それが自然なことなので大して問題にもされなかった)から、ご心配には及ばないかも(笑。

とはいえこの混浴は、何度か“風紀が乱れる”という理由から混浴禁止令も出されましたが、分けるのは経済的に難しいなどの理由により定着せず、明治新政府の1869-70年(明治2-3年)に厳重な取り締まりにより絶滅するまで、禁止されては復活するを繰り返し、のらりくらりと混浴時代が続きました。

「睦月わか湯乃図」歌川国貞 画
「睦月わか湯乃図」歌川国貞 画(1847年)出典:国立国会図書

正月の若湯(新年に初めてわかす風呂)を題材にした風景。元日の初湯には特別サービスで福茶がふるまわれました。中央の番台(ばんだい)の右側に茶釜が見えます。右側の三方の上に山盛りになっているのは、客が入浴料とは別に置いた祝儀“おひねり”です。湯屋からもお年玉としてお客さんに貝柄杓をプレゼントしました(右端にある籠のなかにあるのが貝柄杓)。
湯屋ののれんをくぐると番台があり、ここで入浴料を支払います。番台では手ぬぐいや歯磨き粉、体を洗うための糠(ぬか)袋なんかも販売・貸し出ししていました。
脱衣場と流し場の間に設けられた水気を取るための竹製の簀子、娯楽や社交の場であった2階の座敷へ続く階段など、当時の銭湯の様子がよくわかります。

「流行猫の温泉」歌川国利 画
「流行猫の温泉」歌川国利 画(1881年)出典:ボストン美術館

柘榴口がなくなった明治時代の銭湯、擬人化された猫さんたちがお風呂を楽しんでいるおもちゃ絵です。このお風呂は「改良風呂」と呼ばれたんだとか。左端には「滝乃湯」という名前の打たせ湯を堪能する猫さんが見えます。二階には入浴後(男性のみ)休息しながら談笑や囲碁将棋などを楽しむ部屋があり、また茶や駄菓子なども売っていました。

政府は1879年(明治12年)に石榴口風呂を衛生上・風紀上禁止し、これにより銭湯も次第に近代化されていきました。また、江戸時代には「湯屋」と呼ばれていた銭湯は、明治時代になると「風呂屋」と呼ぶ人が増えていきました。
大正時代になると、初期には壁に富士山などの風景を描いたペンキ絵が出現し、板張りの洗い場や木造の浴槽は姿を消し陶器のタイル敷きの浴室が登場、昭和になると水道式の蛇口が取り付けられるようになりました。ちなみに、屋根が宮型造りの唐破風(からはふ)になって外観が変化したのは関東大震災後の昭和に入ってからでした。

子宝湯銭湯
江戸東京たてもの園、子宝湯銭湯。出典:Wikipedia
昭和の雰囲気漂う銭湯
昭和の銭湯、富士山のペンキ絵。出典:Flickr
比較的新しい型の木桶風呂
比較的新しい型の木桶風呂。出典:Wikipedia
タイル張りの風呂
1960年代のタイル張りの風呂。出典:Flickr

内風呂(据え風呂)はというと、江戸時代初期から存在していたヒノキを用いた大型の小判型木桶風呂(煙突のついた釜の形状が鉄砲に似ているため鉄砲風呂ともいう)が一般に普及したのは明治時代から大正時代にかけてといわれています。また関西地方で流行ったのは、かまどの上に円形の鉄釜を据え下から火をたいて直接に沸かす風呂で、周囲を耐火煉瓦(れんが)・コンクリート・漆喰(しっくい)などで固めて据え付けにした長州風呂(五右衛門風呂ともいう)でした。これは、1800年頃には既に用いられていたようです。

戦後、銭湯は昭和40年代頃まで盛んに建てられましたが、各家庭において内風呂が普及し今では減少傾向にあります。
現在では、半身浴や寝浴、入浴剤・アロマなど家庭での入浴法を工夫する人も多く、開放感を楽しむ「温泉」や「スーパー銭湯」の登場等、日本のお風呂文化はさらに進化し続けているようです。

温泉

江戸時代に盛んになった風呂に入るというのは、非日常的なハレ(霽れ・晴れ)向けの行為だったように感じます。ちなみに、日常はケ(褻)の日、娯楽が少なかったのもあると思いますが。
そのような空間を求めてきているという意味で、柘榴口の入り口を細工を凝らした鳥居形にしたり華やかな唐破風にして飾り立てたのかもしれません。それが、銭湯のペンキ絵や外観へと発展していったのでしょう。
さらに、身分制度の厳しい封建社会の江戸時代でしたが、湯屋は性別・身分関係なしの様々な人が風呂を楽しんだところ、そこには裸の付き合いのコミュニケーションができる場で特別だったとも思われます。
その後、高度成長期を経て銭湯が一時すたれて、現在はスーパー銭湯のようなものがもてはやされています。やはり、非日常的な空間を求めてきているという意味では、今も形を変えて続いているのではないでしょうか。
また、水には人の心を癒す力があると言われていて、ストレスを軽減する効果があるとか。だから、清潔にするだけではなく身も心も軽くなるお風呂が好かれているのでしょう。

出典:江戸浮世風呂
出典:風呂
出典:銭湯
出典:入浴文化の変遷

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