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福を招くおめでたい食べ物「餅」

福を招くおめでたい食べ物「餅」

「餅」というと、おばあちゃんちで縁側に新聞紙を広げて、その上に細かくサイコロ状にした餅を天日干しにしている場面を思い出します。
その干しあがった餅を油で揚げて醤油(または塩)をまぶした揚げ餅、また、長方形の網に入れ練炭の上であぶって焼いたあられなど、どれも作りたてのお煎餅は美味しくて…なんて今はほとんどそんな光景も作りたてお煎餅もなく、寂しい限りですが、餅は現在でも正月、節供などの年中行事や、新築祝い、誕生祝いなどの祝い事に用いられています。
ということで、いつから欠かせない存在になったのか気になり調べてみました。

火鉢で餅を焼いている所

「餅」は、縄文時代後期(6世紀頃)に稲作の伝来とともに東南アジアから伝わったようです。一説には、稲作が始まった弥生時代から、もち米を蒸して搗くことは行われていたらしく、古くから神前への供え物や祝い事に餅を用いる習慣があったそうです。

語源については糯飯(もちいい/粘りのある飯)、持飯(もちいい/持ち運び保存可能な飯)、さらに、望月(もちづき/円形状の食物から)という意味の望(もち)など諸説あります。
いずれにせよ、もち米を蒸して臼(うす)に入れ杵(きね)で粘り気が出るまで搗(つ)いたうえで、色々な形に作ったものを餅の字で表していますが、「餅」という漢字は日本独自の使い方だそうです。

「正倉院文書(8世紀頃)」には大豆餅(まめもち)、小豆餅(あずきもち)、煎餅(いりもち)、環餅(まがりもち)など餅という名のついた多様化した食品がみられ、奈良時代には餅は貴族の菓子として用いられたようです。
季節・行事ごとに供えられ食されるようになったのは「鏡餅」が誕生した平安時代からの事。各種の行事食が確立し、1月の鏡餅や餅粥(もちがゆ)、3月の草餅、5月のちまきや柏餅(かしわもち)など、また米粒を蒸して搗く搗き餅のほかに、各種の材料を加えた餅、粉類を用いる餅がみられ、この頃から餅は祭事・仏事の供え物として慶弔事に欠かせない食べ物となりました。
鎌倉時代にはぼた餅、焼き餅、ちまきなどの餅菓子が一般化し、室町時代には茶道の発達と共に茶道菓子としても用いられました。また、雑煮で正月を祝う風習も室町時代に始まり、江戸時代には一般に広まったようです。

関東風雑煮
関東風雑煮
関西風雑煮
関西風雑煮

江戸時代には将軍から貧しい人々まで正月には雑煮を祝うようになりますが、その内容は地域により違いがあったようです。現在でも東日本は角餅で澄まし汁仕立、西日本は丸餅で近畿を中心に味噌仕立が特色とされていますが、これは江戸時代からのようで、1837年(天保8年)の「守貞謾稿(もりさだまんこう)」には、“今世京都の雑煮戸主の料には必らず芋がしらを加ふといへり。大坂の雑煮は味噌仕立也。五文取(一つ五文で売っていた餅)ばかりの丸餅を焼き、これに加え小芋・焼豆腐・大根・乾あわび・およそこの五種を味噌汁に製す。江戸は切餅を焼き小松菜を加え、鰹節を用ひし醤油の煮だし也”、と書かれています。
丸餅は“円満”に通じるとして好まれたそうで、対する江戸が角餅なのは、のし餅を切り分ける方が早く沢山できるから、また味噌を用いないのは武士が“みそをつける”ということばを嫌ったため、とか。汁は大別して濃尾平野(岐阜県南西部から愛知県北西部と三重県北部の一部にかけて広がる平野)を境にして分けられるそうです。

現在でも昔からの名残で正月や節句、季節の変わり目に餅を食べる習慣があり、縁起の良い食べ物として伝えられていますが、江戸時代の餅は今よりも大切な食べ物だったようで、絵や随筆にもよくとり上げられています。

「師走 十二月の内 餅つき」歌川国貞 画
「師走 十二月の内 餅つき」歌川国貞 画(1854年)出典:演劇博物館デジタル

姉さん被り・たすき掛けでかいがいしく働く女性たちが印象的です。餅を搗いている左側で丸めているのは大きな鏡餅でしょう。後方の筵の上には、のし餅(四角く平らにしたもので、切り餅にする)や、なまこ餅(蒲鉾のように半円の棒状にしたもので、薄く切ってかき餅などにする)が並べられ、子どもは木の枝に小さな餅を丸くつけた餅花を手にしています。左手前には大根とおろし金と鉢があります。搗きたての餅をちぎって醤油味の大根おろしをまぶす辛味餅は、江戸時代からあったようです。

なお、鏡餅の形は昔の銅鏡が丸形だったことに由来し、大小2段に重ねるのは「月」と「太陽」を表すのだそうです。歳神様が宿る場所といわれ、床の間や神棚などに供えられます。

「三職よろこび餅」金堂 画
「三職よろこび餅」金堂 画(1855年)出典:東京都立図書館

江戸幕府を崩壊に追い込んだ安政2年(1855年)10月2日の安政大地震後の絵。大工・鳶・左官の三職が「なまづさん、おめいのおかげで、今年ぁ、久しぶりで、俵で米をかつて餅をつきやしたから、たんとあがってくたせいや」と言って、復興景気で沸きあがり、鯰のためにせっせと餅をついている三職の姿が描かれています。鯰(=地震)は多くの被害をもたらしながら、その一方で世の中を破壊し再生する「世直し」だと認められ、民衆に歓迎され賛美するような「鯰絵」が大変に売れたといいます。

江戸では12月15日から年末まで、昼夜を問わず餅を搗く音で賑やかだったといいます。自分の家で搗いたり、菓子屋へ注文したり、市中を廻る餅搗人足(出張餅搗き屋)に頼んだりいろいろだったようです。また、年末になると各地の神社の境内で、正月用品などを売る「歳の市」が開かれ、餅も売られていたので歳の市で買う人もいました。
ただし、26日は「ろくなことがない」と言われ、29日は「二重苦」に通じることからその日に搗く餅は「苦をつく“苦餅”」と呼ばれ、31日のギリギリに搗く餅も「一夜餅」と呼ばれ忌み嫌われたとか。

『馬琴日記』には、天保5年(1834年)12月に、もち米4斗7升(約70.5kg)を笹屋(菓子屋)に注文して鏡餅、のし餅、水餅(水に漬けて貯える餅)とし、水餅で自在餅(あんころ餅)を作り、一部を親戚や地主に配ったとあります。当時は大量に餅を作り、親戚や知り合いに歳暮として配ったようです。
ちなみに、自分のおばあちゃんちでも1俵(=4斗=60kg)の餅を家で搗いたので、当時は大変だったとか。

餅つき

餅といえば普通はもち米または、もち性の穀粒(粟(あわ)・黍(きび)など)を蒸して搗いた搗き餅をさします。一方、粉餅はうるち米の粉(しん粉)をこねて蒸したもので、柏餅や草餅がこれに相当します。
また、現在市販されている餅には、原材料にもち米をそのまま使ったものと、もち米粉を使ったものとがあり、やはり、食味や歯ごたえを左右する腰の強さ、焼いた際の膨れ具合、煮た場合の溶け具合、伸ばした時の伸びや粘り具合などで、もち米をそのままの方が勝り価格も粉より高いです。廉価なものは、もち米粉に馬鈴薯等のデンプンを加えたものさえあります。
ただ、もち米をそのままは、熱を通すと粘度を増してスライム状になり、よく咀嚼せずに飲み込むと喉につかえて呼吸を止めるという、宇宙からの物体Xのような凶暴性を持つので、デンプンを加えた柔らかく噛み千切りやすい餅は、嚥下(えんげ)困難な高齢者などには需要はあるようです。
実際近年は、猛毒を持つことで知られる河豚(ふぐ)より多数の死者を出していますが、古来祭日の供え物に用いられる神聖な食べ物として珍重されているので、これで死ぬなら「神のいけにえとして本望」くらいの気持ちがあるのでしょうか、多少の危険性は無視されているように感じられます。

しかしながら、餅は、マッチ箱程度の大きさ1個で飯茶碗1杯分のカロリーがあることや、個包装され保存が利く袋詰め商品であること、簡単に入手できることなどから、災害時の非常食としても重宝されています。

最近では季節や行事に関係なく日常的に食べる事がきる餅ですが、やはり正月や祝い事などの「ハレの日」の福を招くおめでたい食べ物として頂きたいな、と思いました。

出典:
出典:餅/コトバンク
出典:雑煮
出典:日本語を味わう辞典

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