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怖いけれど惹きつけられる、怖いもの見たさの「お化け屋敷」

怖いけれど惹きつけられる、怖いもの見たさの「お化け屋敷」

暗闇から鐘をつく音やカラスの鳴き声が聞こえる、ビクビクしながらそろりそろりと進むと、役者(おそらく男性)が演じる青白い顔に黒髪を垂らした女の幽霊が薄明かりに跳びかかる、キャーキャーと甲高い声で泣き叫びしがみつく友人、そこで自分は役者をぶん殴って友人をかばいながら猛ダッシュで出口まで行った…、ところが友人から“なんで役者を殴るんだよ”と怒られてしまった(汗。これは以前に友人と行った後楽園ゆうえんち(現・東京ドームシティアトラクションズ)の昔ながらの納涼アトラクション・お化け屋敷に入った時の思い出。

ということで、お化けが出るからおもしろい、でも出てこられるとやっぱり怖い、恐怖を楽しむ遊びの空間「お化け屋敷」について調べてみることにしました。

「百物語化物屋敷之図」歌川国芳 画
「百物語化物屋敷之図」歌川国芳 画(1844年)出典:東京国立博物館

17世紀半ばに武家の肝試しに始まったとも言われている「百物語怪談会」、武士から庶民に広がり江戸時代に一種のブームになったそうです。ただし、99話でストップするのが一般的だったようです。ですが、100話すべて語って実際に怪異が起きた、という記録も残っているとか。この絵は、江戸時代末期の落語家・林屋正蔵が「怪談の正蔵」の異名をとるほど怪談咄で有名でしたが、この落語に出てくる化け物を描いたとされます。なお、怪談会は夏に限った遊びではなかったとか。

最初のお化け屋敷は江戸時代後期に誕生したといわれています。

江戸が巨大都市へと変貌を遂げた頃、大勢の人々が集い来る盛り場に見世物や寄席などの興行が見られ、そこには軽業や手品などの他に、大がかりな仕掛けを用いて瞬間的な変化を見せる幽霊や妖怪の興行が人々の目を驚かせていました。寄席では怪談咄で人気が出たは四代目・林家正蔵などの落語家が登場しました。
歌舞伎の怪談物における早替わりの影響も大きかったのか、作り物では等身大で迫真的な生人形(いきにんぎょう/等身大で生きている人のように精巧に作られた人形)が幕末の見世物の人気ジャンルとなりました。その中には幽霊の不気味な姿を再現したもの、また、的に吹矢や弓矢が当たると人形が飛び出す仕掛けでは妖怪を題材としたものが少なくありませんでした。
このように、江戸の暗い場所の盛り場には、うってつけの題材だったのか、幽霊や妖怪がうようよしていたようです。

幽霊の記事はこちら→暑い夏の風物詩となっちゃった「幽霊」について
妖怪の記事はこちら→人間の恐れと反省が生み出した「妖怪」が強大化しつつある?!

「京都人形師 大石眼龍斎吉弘 風流女六花仙」歌川国芳 画
「京都人形師 大石眼龍斎吉弘 風流女六花仙」歌川国芳 画(1853年)出典:ボストン美術館

人形細工の見世物は、江戸初期に始まりますが、生人形の見世物が盛んだったのは、安政期(1855-60年)から1887年(明治20年)頃。1852年(嘉永5年)両国橋東詰で人気を博した「見立女六歌仙(大石眼龍斎吉弘 作)」という人形が、江戸における生人形の始めだそうです。これは、呪う人を模した藁人形を神木に打ちつけてその死を祈る「丑の刻詣り(うしのこくまいり)」を行っている女性の生人形を描いた絵です。

「浅草奥山生人形」歌川国芳 画
「浅草奥山生人形」歌川国芳 画(1855年)出典:ボストン美術館

観世音の開帳で賑わう浅草奥山で興行された異国人物の生人形。「山海経」や日本の「和漢三才圖會」などで紹介されてきた、腹部に穴のあいた人びとの住む国「穿胸(せんきょう)国」、手長の人物の住む国「長臂(ちょうひ)国」、足長の人物の住む国「長股(ちょうこ)国」、巨大な人物の住む国「巨人国」など、異国が怪異なものの住むイメージを表しています。そこには、開国への圧力という時代背景の不安感などが反映されていたようです。

文化・文政期(1804-30年)に江戸で怪談物の歌舞伎脚本作者として名を成した鶴屋南北(四代目)が書いたもので、夏場に上演した『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』や『東海道四谷怪談』など様々な怪談物の芝居がありますが、この名場面をカラクリ人形によって再現したものを1836年(天保7年)に江戸・両国回向院で「寺島仕込怪物問屋(てらしまじこみばけものどんや/寺島とは尾上菊五郎)」という見世物として興行します。これが日本で初の本格的化け物屋敷興行とされます。
なお、それまでは春や秋に演じられることが多かった怪談物を、夏狂言として定着させたのは鶴屋南北で、以後、お化けや怪談物は夏の風物詩となっていきました。

「天竺徳兵衛 尾上多見蔵」歌川国貞 画
「天竺徳兵衛 尾上多見蔵」歌川国貞 画(1841年)。異国帰り(インド)の天竺徳兵衛が大蝦蟇(がま)の妖術を使って日本国を乗っ取ろうとする奇想天外な演目。出典:東京都立図書館
「四谷怪談」歌川広貞 画
「四谷怪談」歌川広貞 画(1848年)。夫・伊右衛門の毒により醜い姿に成り果てた妻のお岩が死して怨霊となり裏切った伊右衛門らに復讐を果たす物語。出典:演劇博物館デジタル

この興行が大当たりだったことから、同様の見世物がその後続々と興行されるようになります。
なかでも、芝居や怪談噺などで用いられる小道具を専門に製作していた人形細工師・泉屋吉兵衛(いずみやきちべえ/通称:泉目吉[いずみめきち])の化け物細工は江戸っ子たちの人気を集めました。
1838年(天保9年)に両国回向院で井ノ頭弁財天の開帳があった時に行なわれた「変死人形競(へんしにんくらべ)」という見世物では、獄門のさらし首や女性の生首などが精巧に再現された他、棺桶の割れ目から飛び出た亡霊の首に月明かりが差し込むなど趣向を凝らし、また、1848年(嘉永元年)に高輪泉岳寺境内で「身投げ三人娘」の見世物では、実際に起こった事件の様子を再現し、本物の烏が死体の肉をついばむ(腹部あたりに小さな水鉢を仕込んでそこにドジョウを入れておく)という光景さえ演出して、その表現はまさに真に迫るものがあり大きな話題となりました。気の弱い観客はろくに見もせず走って出口まで逃げるほど迫力のある細工だったとか。

ゆえに、「お化け屋敷」のルーツは「化物細工」や「怪談人形」などと呼ばれた人形の見世物で、後には様々な仕掛けで人を怖がらせることに主眼が置かれるようになりますが、本来は人形そのものの迫真性によって恐怖を呼び起こす見世物だったようです。
加えて、このような見世物は「醜態」を見せることによって善悪のメド(目途)を付けさせるという教育的効果もあったとされます。

なお、仮設営業されるものは見世物小屋の一形態で、出入口に竹を立てて飾り付けるので「薮(やぶ)」と呼ばれました。また、迷いこんだら出られないといわれた“迷うことの例え”「八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず/千葉県市川市八幡に実在する森の通称であり、神隠しの伝承で知られています)」から来ているとも言われています。
見世物の記事はこちら→奇々怪々な昭和の「見世物小屋」がまだあった!?

移動式のお化け屋敷
移動式のお化け屋敷。出典:Wikipedia

明治時代になると、文化国家を目指す新政府によって性的な印象を与える様々なもの(裸体や一時は相撲までも)や贋造物(河童や人魚のミイラの類)の禁止令などが出され、このような見世物小屋は衰退、それに取って代わって官営見世物とでも呼ぶべき催しの博覧会が流行し始めます。この時代のお化け屋敷は不明ですが、1880年(明治13年)の『浪花新聞』には、千日前で「八幡知らずの薮」と表現した迷路の催事が大繁盛、と載っているので開催されていた模様。

大正時代には日本全国で祭事・博覧会などに特設することが流行り、それまでの漫然と恐ろしい展示物を見て歩くものから、光や音をふんだんに取り入れ会場装飾と合わせて魅せて驚かせるアトラクションへと変貌を遂げ、博覧会ブームと相まって、お化け屋敷は人気を呼んだそうです。
そして、お化け屋敷の一般的な呼称が「化け物屋敷」「八幡の薮知らず」「薮」から「お化け大会」と言われるようになり、納涼イベントとして定着し、百貨店の催しとしても開かれるようになりました。

昭和に入ると、夏季限定の仮設建築における興行ばかりではなく、戦後、各地の遊園地で常設のお化け屋敷が見られるようになります。
1951年(昭和26年)に東京・浅草花やしきで、木製のカートで館内を廻る(ライド型)スリラーカーが常設の最初と考えられていて、さらに1954年(昭和29年)には定番の建物の中の決められた通路を歩いて進む(ウォークスルー型)のお化け屋敷も開設、その名も「お化け屋敷」という名称でした。このようなアトラクションに対して「お化け屋敷」という名称が使われ始めたのは、この頃とされます。

この「お化け」は余程集客力があったのか、今では日本中どこのテーマパークでも必ずと言っていいほど「お化け屋敷」というアトラクションが見られ、現在では映像や立体音響、カラクリ満載忍者屋敷仕立て、役者が演じるショー、ストーリーが作りこまれたタイプなど、恐怖を五感に訴えかけ疑似体験させて楽しませる施設が増えてきています。

調神社・十二日まちのお化け屋敷
埼玉県さいたま市の調(つき)神社・十二日まち(じゅうにんちまち)大歳市でのお化け屋敷。出典:Flickr

人は適度なストレスは必要としていると言われますが、怖いものを「怖い」と知りながらもあえて見ようする“怖いもの見たさ”もその一つなのかもしれない、自分に害が及ばないところから怖いものを見たり体験し、そこから解放された時の解放感や安心感を楽しんでいるのではないか、と感じました。好奇心で不思議なものや怪しいものへ惹きつけられる、というのもあると思いますが。
加えて、脳内で“恐怖を感じる部分”と“ドキドキを感じる快楽部分”がとても近くにあるからと言われています。恐怖映像を観たりお化け屋敷体験をすることによって脳は多くの刺激を受け「怖い」という刺激は段々と快楽に変わり、「もっと観たい!」と思ってしまうこともあるようです。

なので、様々なアトラクションやテーマパークが時代に埋れていく中、江戸時代から続いていて形を変えながら未だに高い人気を誇ってる「お化け屋敷」だけは無くならないような気がします(平和な時代だけかもしれませんが)。

余談ですが、欧米の“Haunted house”ではスクリーンを用いた、あるいは三次元立体映像などのシアター型が多く、日本では観客がアトラクション内を歩いて進むウォークスルー型(又はライド型)が多いようです。しかも、ディズニーランドにあるようなユーモラスなものではなく、迫力があって遊戯的な疑似恐怖があるアトラクションが好まれるそうです。
かといって、背筋も凍るようなお化け屋敷は御免被りますがね。

ちなみに、「背筋も凍る」とは、背筋(背骨のライン一帯)さえも凍るほどの恐怖を意味する慣用句で、怪談や恐怖映画のキャッチフレーズに多用されています。日本で、薄着の幽霊が登場する怪談や、笑っちゃうような仕掛けが体験すると死ぬほど恐いお化け屋敷が夏場に盛んになるのは、この「背筋も凍る」かき氷効果を期待してのことです。
また、暑い夏に冷却効果を得たければ、「背筋も凍る」のほかに、仕事などで絶好調なときに他人から勢いを失速させるような衝撃的な事実を告げてもらうという「冷や水を浴びせられる」方法などがあります。
ついでに、恐怖で身も「凍り付く(こおりつく)」とは、あなたのケイタイの着信画面を見た彼女の「このユミって人、誰?」という問いかけに対するあなたの身体の反応をいいます(笑。

出典:日本語を味わう辞典
出典:「お化け屋敷」試論
出典:お化け屋敷
出典:お化け屋敷の歴史

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